アルナーチャラの旅の最中に、
「あなたにはサット・グルがいないのね」
とツアーの参加者の一人に言われました。
わたしのブログを読んで、様々な聖者について書いているわたしを
フラフラ心が混乱した人間だと思ったそうです。
ラマナ・マハルシのツアーに参加しながら、
あっちのグループ、こっちのサットサンガ、
と参加しているのはよろしくない、そんなことも言われました。
しかし、わたしは、本を何冊か読んだくらいで、
「この人はわたしのサット・グルです」などとはどうしても思えませんでした。
どんなに教えが素晴らしくても、もうこの世に肉体がない人を、
2~3冊本を読んで知ったからと言って、
グルなどと思えなかったし、言いたくありませんでした。
何より、相手に(聖者に)対して失礼だと思ったのです。
何度も訪問したリシケシでは、
グルを持つことは本当に霊性の修行をして悟る気持ちがあることの証です。
グルはもちろん悟った人で、その人の言うことは絶対なのです。
結婚するよりももっと強い絆が生まれると、或る方から聞きました。
同じ人をグルに持つ人同士はグルバイと言って、霊的兄弟姉妹となります。
こちらも、血縁のつながりよりも絆は強いのです。
それを聞いた時、また実際にグルに仕える人たちを見たり、
そのダルシャン(グルに、霊的な修行をする上での様々な障害について質問をすること)
の場に伺ったりして、
サット・グルを持つということは、もう退き返せない修行に入ることなのだと実感しました。
こちらが生半な覚悟では、サット・グルにはなってもらえませんし、
サット・グルを見つけることも容易なことではありません。
聖地に行っても、
空き時間のほとんどを、感覚の欲求を満たすお買い物に費やしている
(そのこと自体は悪いことではありません)俗人には、
まだグルは必要ないのではないかしら・・・。
多分、ラマナ・マハルシが今肉体を持ってこの世にいたら、
「あなた方はまだグルを持つ霊的レベルではありません」
と、この時言ったに違いありません。
グルとは、ヨーガの指導をしてくれる先生とは違うのです。
また、肉体がないグルは何も言いませんから、時に好都合でもあります。
さて、わたしはにフラフラしていたわけではありません。
きちんと霊的なヨーガのことを実践し学べる場を探していました。
ただ慎重で、何処に行っても懐疑的でした。
自分の通っているヨーガ教室の先生が勧めるからとか、
いいと思ったらワーッと感情的になだれ込むとか、
そういうことはしたくありませんでした。
いつも一歩退いて冷静に眺める気持ちで、あちこちの集まりに参加していました。
自分の内なる声を大事に、妥協はしたくなかったのです。
聖者は、皆素晴らしいでしょうけれど、
人間は朱に交われば赤くなる、グループのありようは大事だと思ったのです。
観点のポイントは、わたしの場合
まとめる立場の人が、参加している人たちを愛憎で支配しないことです。
多くの集まりは、この問題が起きていると感じました。
アルナーチャラに行ったのは、
ラマナ・アシュラムがどんな所か見てみたかっただけなのですが、
旅の途中で冒頭のようなことを言われ、精神的に負担になっていました。
帰国してから、或る時自分の気持ちを偽ってブログを書いていることに気が付きました。
正直になれず、無理をしていたのです。
同時に、「もうラマナ・アシュラムには行くことはないだろう」と思っていました。
その直後、
ヴェーダンタ協会で2月に行われたスワミ・ヴィヴェーカーナンダ生誕祭の時、
自分の気持ちが偽りなく、急速にこの場に引き寄せられ始めていることに気が付いたのです。
場と言うのは正確ではありません、その場にある霊の力に、です。
また、それまで、自分はマハーラージ(協会長のスワミ・メーダサーナンダ・ジ)の講話を
とても表面的に受け止めていたことや、この世界のはかり知れない奥深さを実感し始めたのです。
そう直感する具体的な出来事があった、と言うのではありません。
自分の意図ではなく、まさに起こったのです。
それは、無理も緊張もなく、緩やかな自然な出来事でした。
今年2月のスワミ・ヴィヴェーカーナンダ生誕祭