アヨーッデャー(聖者ラーマの生誕地)から、
若い僧侶がドッキネシッョルに到着した時、既にラーマクリシュナは肉体を捨てていました。
僧は、東方に神が降臨したという幻を見、
ベンガルに辿り着いた時に、ラーマクリシュナの名前と住いを知ったのです。
カーリー寺院まで、1600キロの道を歩いて来た彼の嘆きは大きいものでした。
今なら飛行機で何時間、それとは違うそれは、想像を絶します。
落胆のあまり、カーリー寺院の支配人が差し出す食事も拒んで、
パンチャバティで瞑想する彼の下に、ある晩ラーマクリシュナが現れたのです。
ラーマクリシュナはプディングを彼に食べさせるために持っていました。
僧の喜びは、計り知れないほど深いものでした。
わたしがラーマクリシュナへの信仰を持つ大きなきっかけとなったのは、
この逸話を読んでからです。
この話は、難しい知識も、ラーマクリシュナの高い霊性についても、
触れていません。
在るのは、唯「愛」だけです。
ラーマクリシュナが人への「愛」のために、肉体がこの世から無くなっても、
このように出現してきた話は他にもあります。
弟子のスワミ・ヴィヴェーカーナンダも、
最も大事なのは愛であって、霊性の高さや沢山の知識にそれは優ると話しています。
沢山の深い知識を誇ることは、行動との矛盾を生みます。
自惚れに結びついた時には、何段か、登って来た階段を転げ落ちることは確かです。
清らかな行いや風貌に、一点のシミを付けるだけなのです。
他者の心に、真理や永遠へのあこがれを植え付けるのは、
普遍的な「愛」の力以外にはありません。