はるはあけぼの ヨガDiary

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カテゴリ:わたしは誰か?Who am I?( 85 )

あなたは行為者ではない

「あなたは行為者ではなく、その行いを観る者です」
その教えを実際に体験するために、プラーナーヤーマやアーサナを使う
スワミ・ヴィスワルーパナンダジのクラスを、日本で再び受けることが出来ました。

何度もわたしたちに、「Who am I?=わたしは誰か?」と問いかけるスワミジ。
この世界の顕われについての教え、つまりヨーガ哲学のレクチャーの後、実際に身体を動かし、
クラスは進行していきました。

わたしの本性は何か?
そのようなことを考える機会に遭遇する方は本当に少なく、出逢えた方は恵まれた方と言えます。

ハタ・ヨーガ(肉体を使うヨーガ)は、健康になるツールではなく、
まして綺麗なBodyを手に入れるためのものでもありません。
気持ちよさを味わうものでもありません。
アーサナをした後、気持ちが良くスッキリする、けれどそれはただ一時的なもので、肉体の上に起こる快楽に過ぎません。
少し時間が経てばあっけなく消えてしまいます。
それが、ヨーガの教えと矛盾した体験となってしまわないためにも、ヨーガ哲学の勉強は重要です。
また、ヨーガの瞑想も、ヨーガ哲学の知識がないと、その結果を得ることは難しいのです。
ただ座っても、それは瞑想とは言えません。
よく聞こえてくる、「瞑想状態」という言葉はなんなのでしょう?

「わたしは行為者ではない」としっかり頭に入れて、観る者になる…。
最初は努力が必要です。
でも、それが徐々に理解でき、また、実感できると、「苦」というものが減ってくるのは事実です。
また、多くの方が望む、ストレスのない状態もやってきます。

でも、真の目的は、もっと高いところにあります。
「悟り」
瞬間瞬間を観る者として生き続けたら、
わたしたちを支配している「3つのグナ」のサットワだけとなり、
それさも超えていくことになるのです。





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by haru-ha-akebono | 2017-09-16 18:54 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)

グルの教え

この2~3年、また行ってみたいと思うインドの聖地がありました。
そこに行かなくなって、6年が経ちました。
その間、インドには毎年と言っていいほど行っていたのですがー。
昨年秋、たまたま、いくつかの事情が重なって、再訪してみることにしました。

旅の目的は修行、或いは巡礼です。
前半の1週間は、コルカタのラーマクリシュナミッション・ベルルマトにいました。
マトのゲストハウスに滞在し、大半の時間をマトで過ごしました。
外に行く時は、マトと契約している運転手さんの車で、
ラーマクリシュナゆかりの地や、
ラーマクリシュナやホーリーマザーの生誕地を訪れ、
街に行って買い物をするとか外食をするとかいった時間は
まったくありませんでした。

後半、再訪したいと思っていた北インドの聖地に行きましたが、
そこには、わたしを惹きつけるものはもう何一つ存在しないことを知りました。
もうここには来なくていいと思ったのです。
わたしにとっては最初に訪れた「聖地と呼ばれる場所」でしたが、
当時もどこか満足出来ない気持ちをいつも抱えていたことを思い出しました。
「霊性の道」を意識し出した時から、
『わたしのグルは何処にいるのだろう?
 いつか見つかるのだろうか・・・。
 ここにはいない。』
と思っていたことも思い出し、今ここにまた来たのは、
タクール(シュリー・ラーマクリシュナ)のお導きだったのかと実感したのです。
今はサット・グルと仰ぐラーマクリシュナ。
「よそ見しないでしっかり歩きなさい」
と言われたのだと受け止めています。



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by haru-ha-akebono | 2017-01-29 18:09 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)

内在するものを顕す

ラーマクリシュナはおしゃられた。
『アートマンーこの潜在している神性を顕現すること、
 つまり内に宿る「神」を悟ることが人生の目標であり、
 この目標に到達するための苦闘のみが
 人間の存在に意味を添えることができる』

感覚の欲求を満たすこと、そのためにお金を稼ぐこと、
これしかない人生に疑問を持たないのは、
人間には、解消せねばならないカルマがあるから。
この2つをやりつくして、
希望という幻想から得られるのは、苦しみだけだと心底理解出来たら、
人はアートマンを顕現する努力を始めるでしょう。
その機会に遭遇しながら気がつかない人、
水際まで来ていながら引き返す人、様々。

だけど、気づきはいつ起こるかわからないのです。



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by haru-ha-akebono | 2016-07-17 17:09 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)

アートを通して見える世界

『人は他者を愛さねばならない
 なぜなら、その人々は彼自身だからだ
 (この世界には)一者のみが存在する』 ・・・スワミ・ヴィヴェーカーナンダ


先日、今年わたしにとって2回目になる、保育園での美術のお手伝いに行きました。
この日は年中さんクラスで≪色で遊ぶ絵本≫を創りました。
この絵本は、昨年、この保育園の美術を担当する先生のアトリエで、
わたしも含めた「美術を人に教えている人たち」のクラスでも、
一つのカリキュラムとして行いました。

保育園では、基本は3枚の紙に、
絵具と様々な用具を使って自分の世界を展開しました。
最終的に、製本までします。
本になると、他の作品よりも一層達成感がありますし、
手元に置いて何度でも見ることが出来るので、楽しいのです。
約2時間、この日も制作過程で、子供たちの行為や行動は刻々と変化しました。
子供には子供の思いがあり、
それを大人はどう受け止めるのか・・・・。
真剣でないと、子供の言動を見逃してしまうと思いました。

昼食をはさんで、この日の美術に関わった先生ー
美術担当と担任の3人ーで「振り返り」をしました。
大人が積んできた経験が、子供を理解するためにいかに邪魔をしているかが
しっかり実感出来た日でした。
この前の週の「振り返り」では、担任の先生が、
『問題があるのは子供たちじゃなく、わたしたちじゃないかと、ある時
 気が付いたのです』
とおしゃったのですが、
こういう思いに至るのは、なかなか大変だったのではないかと感じました。

子供との関わりを、深くとらえていくこの保育園は、
3月に、根津のギャラリーで子供たちの作品展を開催します。
正確には、わたしの先生でもあるこの保育園の美術担当の先生が主催者ですが、
美術を中心にするのではなく、美術の時間を持つことで、
子供たちの、日常の保育園や家庭での生活がどう変化していっているかを
お知らせする展覧会になるようです。

さて、冒頭にスワミ・ヴィヴェーカーナンダの言葉を載せたのは、
この保育園に行った2日後の朝、≪保育園の現状≫をテーマにしたTV番組を
国営放送で観て、ひどく驚いたからです。
「関わり」などよりはるか以前の、
子供たちの生命が危機にさらされている保育の現場の話に、
その格差に、同じ国の同じ時代の出来事なの?と背筋が寒くなりました。
「保育士ばかりが悪いのではなく、親や子供も反省すべき。
 家庭のしつけがなっていない。」という保育士さんの発言もありました。
先ほどの園の先生とは全く逆の考えです。

2日前に行った保育園の園長先生は、以前わたしに、
「保育園で給食やおやつを出すのは、昔は家庭で食べられない子がいたからなの。
 今はそんなことはほとんどありませんが。」
とお話ししてくださったことがありました。
保育園が、経済的に大変な家庭のサポート的な役割だった時代もあったのです。
しかし、TVで話される現状は、なんのための保育園なのだろうと、
経済的には発展を遂げてきた日本の社会のひずみを表しています。
これは介護の現場にも当てはまることでしょう。

「問題は、先生であるわたしたちのほうにあるのかな」
と、先生方に限らず、どの人も、そう思えたら、
スワミジーの言葉を実現できることになります。

★保育園の「表現者たち」展の詳しいお知らせはこちらから

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    コルカタにある、ニヴェディッタ・スクールに飾られらたスワミジーの写真

★21日(日) 日本ヴェーダーンタ協会にて、スワミ・ヴィヴェーカーナンダ生誕祭が
 行われます。詳細はこちらから


















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by haru-ha-akebono | 2016-02-18 18:32 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(2)

ナルシスは池に落ちた

この頃ブログに登場しなくなった、リシケシのヨーガの師は、
わたしが、エゴを表す言葉を放つと、とっても嫌な顔をしました。
時には頭を叩かれることもありました。
「I・・・アイネス」、つまり自我というか自分意識は霊性の修行の大敵です。
ヨーガの師はスワミで、ハタ・ヨーガは肉体の制御または浄化のためにやっているので、
様々なポーズ(アーサナ)が出来るからと言って、決して自惚れたりはしませんでした。

「バガヴァッド・ギーター」には、人間の善、美徳について27ほどの性質を挙げています。
これに比して悪い性質はたったの6つ。
この6つの悪が、27の善をすべて滅ぼしてしまう、魔性に堕ちるものだと書かれています。
その中でも、ラーマクリシュナがこれだけは耐えられない、
と言ったのが自惚れです。
これが霊的に人を向上させない最大の障害なのです。

自惚れは人間誰もが持っています。
これがなぜによろしくないのか・・・。
考えてみました。
まず、自分は誰よりも何かに於いて優れている、と思うと、
他者は自分より当然劣っていると考えるでしょう。
これが自動的に意識の中で行われます。
すると、その他者を庇護、擁護しなくてはならないと考え、行動します。
しかし、これは全くの優越感に過ぎません。
その時、そこには支配と服従という関係が生まれます。
相手がそれを望んだならともかく、
そうでなければ、そんなことは全くして欲しくないでしょう。
相手は服従したくはないのですから、ここでその関係には不和が生じます。
しかし、被支配者の方が、何かに強いコンプレックスを持っていると、
この関係が成立してしまうこともあります。
また、優しさと支配を混同してしまう人もいます。

自惚れが肥大してくると、自分は一人の支配者から多くの人の支配になった、
もっと進むと自分は神だと、錯覚をおこすこともあります。

本来、人間同士は対等、平等と言われているのに、
実はそうではありません。
一般社会はこの支配と服従で成り立っています。
でも、霊性の世界にこれはあってはならない、霊(魂)は一つなのですから。

霊性の探究をする人たちの中で多いのが、難しい哲学の本を沢山読んだ、
英語で原書を読んだ、と言って自惚れるケースです。
でも、以前書きましたように、本を読んだだけでは、人間何も変わりません。
本に書いてあることを実践しなくては、唯の読書なのです。

自惚れを無くすため、カルマ・ヨーガがあります。
社会生活では弱者とされる、ホームレスや障害者、被災者などの手助けをします。
でも、これを「お世話をする機会を与えて貰って感謝する」気持ちで行うのです。
これには、大きな努力が必要です。

真剣に探究、道を歩く人は、自分をしっかりと見張っていなくてはなりません。



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by haru-ha-akebono | 2015-06-10 23:56 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)

わたしの敵はわたしの心

今日、「ラーマクリシュナ・シャラナム」、ラーマクリシュナの賛歌を歌う機会がありました。
歌の和訳では、「ラーマクリシュナは私の心の避難所」という言葉が出てきます。
そう、ラーマクリシュナはわたしの避難所なのですが、
ふと何から避難するか?と一瞬考え、「自分の心」からだと気付きました。
インドの聖典「バガヴァッド・ギーター」に、『心は自分の友であり、また敵である』という
有名な節(シュローカ―)があります。
普通、私たちは、敵はいつも外にいると思っています。
聖典の学習や実践が進まないと、やはりその考えのままです。
この、『友と敵』という二元性は、『好きと嫌い』に通じます。
どちらも、心の産物なのですが、
「嫌い」は、その相手に落ち度があって自分が嫌悪感を持つ結果だと、
無意識に自分を納得させているのです。
相手に人から嫌われる要素があるから、自分は相手を嫌っていると思うのが、
多くの「嫌い」の構造だと思います。

でも、本当にそうでしょうか?
私たちの心の中に、「嫌う」という感情があるから、「嫌う」のです。
私たちは、自分の快適さや遂げたい欲望が阻害された時、
その原因となったものや人を「嫌い」ます。
「好き」はその反対です。
でも、この「好きと嫌い」はいつ反転してもおかしくありません。
「光と影」のようなものだからです。

このいつ反転してもおかしくない流転のような生活を続けていては、
真の幸福に到達できる日はいつまで経ってもやっては来ません。
ずっと続く幸福を願っていながら、
「不幸」を生む心をなんとかしようとは思わないのです。

相反する感情を超える方法はないのでしょうか?
まず初めに、全ての原因は自分の内側にあることを認めることです。
「敵」は自分の心だということ・・・。
外の世界に敵がいないとわかれば、恐怖や怒りが少しずつ減っていくはずです。
自分の心の制御だけが自分のすべきことで、
他者はすべて自分と同様の要素を持つ人。
共感が生まれてくるのではないでしょうか?
やがて、それは「愛」になっていくはずです。


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by haru-ha-akebono | 2015-06-07 00:21 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)

考え続けること

シュラヴァナ、マナナ、ニディディヤーサナ。
これは、グルの話(教え)を聴くーシュラヴァナ
    聴いたことを熟考するーマナナ
    瞑想してそれを考え続けるーニディディヤーサナ
という、ヴェーダーンタの修行です。

このどれもが、集中力が必要で、ということは体力が必要だということです。
わたしもそんなに体力がある方ではありませんが、集中力はあります。
これは、ひとえにハタ・ヨーガを続けてきたからだと信じています。
以前、身体が丈夫でない方が、
ハタ・ヨーガをイライラしながら行っている場面に、二度遭遇したことがあります。
思うように動かせないから、イライラするようでしたが、
動かした時の身体の痛みに向き合えないでいるように見えました。

一つのことを考え続けるには、集中力の他に、執念深さが必要だと思います。
ずっと前に、ヨーガを始める前に、心理学を学んでいたことがあります。
人の問題は、悩みがあることではなく、悩みを深く悩めないことだと
或る本に書いてありました。
深く悩めることが、人間の自己成長につながるのだそうです。
禅でも、グルから出された課題を考え続ける修行があります。
もう、考え尽くして手放した時に、答えが顕れるのです。
マナナ、ニディディヤーサナ、も同じではないでしょうか。

少しかじった聖者の言葉を、深く考えたり、自分には出来ないと悩んだりせず、
「とりあえず、そこに逃げていく」、つまりわかった気になるだけですと、
いつまでも自分の内面は成長しません。

なんでこんなことを書いているかと言うと、
悩んだ甲斐があったことが、あったからです。
悩みを持ち続けていると、どこかに答えが顕れてきます。
人の言葉、本の言葉、様々なところにあります。
答えが得られなくても考え続け、
得られた時には、悩んだことがあっという間に消失していくのです。
「そういうことだったのか」という、納得が実感として得られたら
なぜ、悩むような出来事に出逢ったかも理解できるのです。

少しずつ、階段を昇っていくしかないのがヨーガの修行です。
昇ったのに、少しまたは大分、転げ落ちて後退することもあります。
諦めないのも、集中力と執念深さです。
本を読んで頭で理解しただけでは、何も得られないのです。





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by haru-ha-akebono | 2015-05-31 00:09 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)

二元性を超える

「好き・嫌い」・・・久しく忘れていた言葉でした。
しかし、人の行動の多くをこの感情が決めているのではないでしょうか。
先日、「好き嫌い etc を少なくして云々」というお便りをいただきました。
私よりもずっと高い修行をされてる方からです。
好き・嫌い、良い・悪い、といったものは修行の邪魔になります。
当たり前のことが書いてあるな、と思い、すぐに
「どうしたら好き嫌いを少なく出来るの?」と思いました。
そこには言及していませんでした。

好き・嫌いの源は、自分への愛ではないでしょうか?
自分の体や心、と私たちは一々意識していませんが、
これが自分の本質であると思っていて、
それを何かによって浸食される、またはされそうになると危機を感じます。
その時、「嫌い」や「怒り」、「怖れ」といった感情が生まれます。
反対に、自分の体や心を心地よくしてくれるものは「好き」になるのです。
例えば、お世辞だって、褒められれば嬉しいものです。
自分への愛が満たされるわけですから。
この満たされた愛が壊れそうになると、人はそこに執着します。
自分の心地よさを失いたくないからです。
もし失われたら、怒りや悲しみが出現するでしょう。
その強弱の度合いは、自分への愛の強さによるのでしょう。

さて、「執着」と言いましたが、「心や体は自分」という誤った認識がある限り、
これは存在し続けます。
執着とは、無くなる恐れがあるものに対して抱く感情です。
肉体や心はいずれ無くなるもの、永遠ではありません。
寿命が尽きたら、それらは無くなるとわかっているから、
しがみつく、執着するのです。
もし、永遠のものがこの世にあるとしたら、執着は起きないのではないでしょうか。
ヴェーダーンタ哲学では、人の本性は「アートマン」だと説いています。
永遠に変わらない、死ぬことも生まれることもない存在。
私たちの肉体と心の背後には、このアートマンがいます。

このアートマンは、宇宙の意識であるブラフマンの反射なのですが、
大元のこのブラフマンから見たら、
人間の「自分への愛」なんて、幻のレベルです。
話は急に飛躍するのですが、
そうしたら、嫌いも好きもなくなります。
人間を含むすべての命あるものは、このブラフマンの中にあるのです。
無くならない、永遠に光輝く存在と言われるものの一部なら、
失うものは何も無いのだから、好きだの嫌いだのはどうでも良くなります。

このような図式を意識して、頭に描いて、瞑想してみることを繰り返すと、
執着は徐々に薄れていくと言われています。
唯、体・心意識はとっても強いそうです。
何世も生まれ変わってきたから、その思いを強く信じ込んでいるのです。
だから、「自分の本質は体でも心でもない」と、
繰り返し考えた方がいいのです。
やがては、認識の転換が起きる時がくるでしょうから。

「好き・嫌い」の感情は、瞑想の邪魔になります。
この感情を無くすために、「自分は肉体でも心でもない」と瞑想をするのに、
その感情が瞑想の邪魔をするなんて・・・。
どうやってすればいいのでしょうか?
まず、「好き・嫌い」の思いが瞑想中に湧いたら、それと闘わないことです。
放っておくと、流れて行ってしまいます。
しかし、根絶しないと、いつもやって来ては去って行くので、
執着を手放す実践、「自分はアートマンである」と、毎日内省をしましょう。
やがて、二つの対立する感情(実は一つの感情の表裏なのです)は減って、
平穏が訪れるのです。


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by haru-ha-akebono | 2015-04-25 00:32 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(2)

移ろうものはわたしではない

小さな出来事がきっかけで、気持ちはネガティブに支配されていきました。
短くはない、異国の生活の中で。
最初は、ネガティブになったきっかけの対象(対人関係)の相手のせいにしていました。
しかし、それでおしまいに出来るには、わたしの知識は多く、矜持もありました。
何年か、心の制御の訓練や信仰を続けてきたのに、
何の成果も現れていないとは!!
それとも、あるところまで浄化されても、簡単に転落するのが心の性質なのか?
どちらかはわかりません。
しかし、心の弱さ脆さを実感せずにはいられませんでした。

これは、心=自分だと勘違いしているからです。
何年か前に、
「わたしたちの本性はアートマン、身体や心は本当の自分ではありません」
というレクチャーをした自分がこの状態・・・。
“情けない” と思いました。
でも、心が闇に支配されているのは事実。
この闇の大きさと深さに心底ぞっとしました。
唯、今まではこんなに強く、心のいい加減さを認識したことがなかったのです。
もしかしたら、これは少しの進歩なのだろうか? 自問しました。
以前、<瞑想を始めると自分の心の汚さがよくわかる>
という話を見聞したことを、思い出しました。

ここから脱出しなくては、なんのために瞑想や信仰を続けてきたのかわかりません。
その時間を無駄にしたくないし、
おぞましさや辛さから逃れたいと思いました。
放っておけば、問題は違う形でまた自分を苦しめるにちがいない、
そう真剣に思いました。
過去の出来事を思い出し、自分の心の傾向についても考えました。
問題の『対象』は、人や物、つまり一時的なもの、移ろうものです。
自分の心も体も変化する不確実なものなのに、
追いかける対象も同じ性質なのでは、問題が起きるに決まっています。
例えば『人』に何かを求めて、得られないから苦しいし、
苦しいから怒りが湧くのです。
自分は、対象に一体なにを求めているのか?
『愛』・・・。
しかも、『変わらぬ』です。
でも、変わるから、辛くなるのです。
ならば、変わらぬ永遠のものを愛そう。
それは、真理であり、たった一つの実在です。
「サット、チット、アーナンダ」
絶対の知識、絶対の存在、絶対の至福。





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by haru-ha-akebono | 2015-04-20 00:42 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)

旅の終わり

いつもインドの旅の終わりは悲しい。
飛行機に乗ると涙が出そうになるし、成田空港に到着すると
そのあまりの静けさ・・・否、インドと違うだけなんだけど、寂しくなる。

でも、3月に帰って来た南の国を発つとき、心底ほっとしました。
もう少しいたら、本当の病気になって倒れていただろうと思うと、
これで良かったのだと素直に認められたのです。
機が離陸すると心身が緩んできて、すぐに眠りました。

いつも人目に晒されている気がしていました。
だから、空港に入って誰も知った人がいなくなったら、せいせいしたのです。
昨日、別れを惜しんだ人々のことは、一時忘れました。
2か月という、短いような長いような期間にあったこと、起きたことを
脳が消化・整理するにはまだまだ時間がかかりそうでした。
成田空港に着いた時、「あ~、日本はいいなぁ!!」
とつくづく、実感・体感、回転寿司を食べたのでした。



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by haru-ha-akebono | 2015-04-10 00:29 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)