はるはあけぼの ヨガDiary

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カテゴリ:聖典を学ぶ( 42 )

虎の中にもブラフマンが・・・

「誰とでも仲良くしなさい」
このように幼稚園や学校で、大人たちから言われて育ちます。
それが、学校教育というものです。
でも、この通りにしていたら、生活は大変なものになってしまうでしょう。
現実は甘くはなく、悪い人というのはいるものです。
ヴェーダーンタを学んでいくと、全ては神の顕れ、
全てにアートマンが宿っていると知ります。
そこで、悩む・・・。
或る人をよろしからぬ人物だと避けている自分は、
その教えを実践出来ていないと。
その辺のことを、先日、聖典の勉強会で学ぶ機会がありました。

わかり易い例え話があります。
『虎や象の中にも神様=アートマンはいる。
 けれども、抱き着いたら、
 噛み殺されたり、踏みつけられたりして、死傷する。
 だから、遠くから見ているだけ、挨拶するだけでいい』

そう、このようにして、相手を悪く思う感情は持たないようにすれば、
何の問題もありません。
悪い人だからと憎んだり嫌悪したりすると、
自分の気持ちが汚れてしまいますから。

世間に暮らす家住者だろうと、出家した僧侶だろうと、
真剣に求道している人は、付き合う人に気をつけねばなりません。
日本には、『朱に交われば赤くなる』ということわざがありますが、
人は案外簡単に影響を受けるものです。
よこしまなものは良い波動より強力で、また一見魅力的な表情をしています。
もし堕落すると、戻ることには多大なエネルギーを必要とします。
戻れなかったら、それまでの求道はすべて無駄になるのです。

流行の断捨離をする時、もったいなくて捨てられないけれど、
本当はもう必要ないものが沢山あることを知るでしょう。
人を避けることに罪悪感を持ったり、未練を持ったりするのも同じです。
その人と自分の関係をよく識別し、本当に自分を高める人か、
共に歩める人か、嘘や裏表のない人(これは自分も実践が必要)か、
断捨離しなくては先へ進むことは出来ません。

ここで、一つ、悪い人=嫌いな人ではありません。
また、好きな人が=いい人とは限りません。
世の中、そんなに単純ではなく、悪い人だけれど好きにもなるのです。
だから、問題が起こります。
悪い人だとわかっていて付き合っている、
その自分の愚かさに気付き、関係を断ち切る勇気が必要になります。



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by haru-ha-akebono | 2017-06-08 15:06 | 聖典を学ぶ | Comments(0)

識別~Viveka

以前、ラーマクリシュナミッションの海外支部のスワミジが
来日されて、日本支部で講話をされた時のテーマが、
「識別ーViveka」でした。
『霊性の修行には覚悟が必要。
 人と付き合う時も、自分をその道から引きずり降ろす人か、
 助ける人か、識別が必要です』
この言葉が今でも、忘れられずに残っています。

これはおそらく、注意して人と付き合うということだと思っています。
もう一度、そのスワミジにお会いする機会があったら、
確認してみたいのですが。
相手が世俗的だから、避けるとか嫌う必要はありません。

人の心とは、木の葉のように、いつもあちこち風に飛ばされるがごとく、
さまよっています。
お金や地位や名声が、自分を幸せにしてくれると、錯覚しています。
人を助けることがいいことだと思っていますが、
それは自分を助けることになっているとは気が付いていません。
人間に生まれてきたことの目的を真剣に考える場が、
与えられることなく、一生の終わりが近づきます。
終わりは、人によって違います。
肉体が、若い時、老いた時、人それぞれです。

霊性の修行とか宗教と聞いて、笑ったり気持ち悪がったりした人も、
最期の瞬間は「自分の人生は失敗だった」と思うそうです。
掌中には何も残っていないことに、その時刻に気が付くのでは遅いのですが。

付き合う相手、のみならず、自分が行うこと思うことが、
本当に重要か、必要か、識別して生きることが大事、そんな言葉を
スワミ・ヴィヴェーカーナンダのメッセージから見つけました。

『カップ一杯の欲望を飲み干すと、世界は狂気になる。
 朝と夜は一緒には来ない、同様に、欲望と神は一緒には来ない。
 欲望をあきらめなさい』


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    コルカタ、ガンジス河にかかる「ヴィヴェーカーナンダ・ブリッジ」









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by haru-ha-akebono | 2016-02-28 15:33 | 聖典を学ぶ | Comments(0)

永遠の幸福

『生と死、善と悪、人知と無知のこの混じり合いは、
 いわゆるマーヤー、あるいは普遍的現象と呼ばれるものである。
 君たちは永遠にこの網の内側で幸福を探し求め続け、
 幾多の悪に出会うことになろう。
 悪いことには会わず、良いことだけを経験するなどというのは、
 子供っぽいたわごとだ。』  スワミ・ヴィヴェーカーナンダの言葉

自分の幸せを望むのは、人間の常でしょう。
今ある状況よりももっと良いところへ、
或いはなにがしかの不幸が訪れた時には、
そこより脱出して良いと思える地点に行きたいと思う・・・。
望む幸福が大きければ大きいほど、不幸も大きく返ってくるとは誰も思わないのですが、
それはスワミジーの言うように、現象界の摂理なのです。

「自分探し」という言葉が一時流行りましたが、今もそのためのツールが
立派な商売として成り立っていることを、つい最近知りました。
自分を探すってなんじゃ?と思うのですが、
これも今よりも幸福になりたい人がとる、行動なのでしょう。
そもそも、「自分」を探すことって可能なのでしょうか?
スワミジーの言葉を借りれば、マーヤーの外へ出ない限り、
わたしたちは全員もれなく、自分で自分を探すことは不可能なのです。
「探されたつもりの自分」は「一時的なもの」で「永遠」ではありませんから、
不幸に必ず出遭って、それに対した時の自分の反応は以前とほぼ同じ・・・。
と感じたら、また、探さなくてはなりません、もっと違う自分を。
そのからくりを理解しない限り、
「自分探し」に膨大な時間とお金を注ぎ込む必要が出てくるでしょう。
注ぎ込む人がいる限り、いただく人が存在します。
自分が商売の道具になってる間は、
真の幸せを手に入れることは出来ないでしょう。

今は、何でもお金を払うと手に入れることが出来る(あるいはそう思われてい)
時代です。自分の姿(実相)も、お金を払えば手に入ると思う、
それも「マーヤー」です。
今の自分より仮に良くなったとしても、
また生まれ変わってくる、輪廻の輪から逃れたわけではありません。
「仮に良くなった自分」から来世がスタートするわけではありません。
人間に生まれてくるかどうかも定かではありません。
この繰り返し、つまり輪廻を繰り返すことが、全ての苦しみの源なのです。
スワミジーの説くヴェーダーンタは、
その輪から抜け出ることを目的にしています。
ヴェーダーンタは、スワミジーの生まれるはるか昔からインドに伝わる
哲学で、思想で、宗教です。
輪廻から抜け出ることが、マーヤーの外に行くこと。
すなわち悟り、解脱です。
そこは永遠不滅の命、幸福の住処なのです。

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by haru-ha-akebono | 2016-02-24 18:13 | 聖典を学ぶ | Comments(2)

目的に達するまで立ち止まるな!

『スワミ・ヴィヴェーカーナンダの生涯・1』を読んでいます。
インドはコルカタにある、ラーマクリシュナ・ミッション・ベルルマトの
書店で買った、東西の弟子による全2巻の本です。
英語版のそれは1冊が結構厚くて、買う時にまず思ったのが、
「果たして自分はこれを読むのか?」
次に、
「重くて2冊は持って帰れそうもない。スーツケースに入るか?
 他にも本を買ったから、荷物重量が超過するのではないか?」
ということでした。
最初、1巻だけを持ってレジスターに行くと、会計をしている
ブラマチャリ(お坊さんになるために修行しているまだ僧侶ではない若者)が、
「2巻目は買わなくていいのか?」
と聞いてきました。
内心は迷いながらも、はっきりとうなずきました。
2は、また来た時に買うことにしようと思ったのです。
しかし、翌日、再び書店に行って2巻目を買いました。
今は、買ってきて良かったと思います。
インド出国後、別な国に立ち寄って本は増え続けましたが、
幸い、荷物は重量オーバーにはならず、スーツケースではないもう一つの布袋に
入れて航空機に預けたのですが、無事到着しました。

その旅から帰ってもうじき1年になるのですが、
最近まで棚に置かれたままだったその本を先日読みだしました。
そうしたら、とても面白くて、辞書を引きながらですが、
どんどん読みたくなるのです。
日本支部から、日本語のスワミジーの生涯の本は出ていますが、
今一つ読み進めず、真ん中あたりで止まってもう何年か経ちます。
幾度も読もうと挑戦しましたが、いつもすぐ投げ出してしまうのでした。
この違いは何だろう?
内容は、もちろん2巻ある英語版は詳しいですが、
違うことが書いてあるわけではありません。
しかし、その書かれていることの背後にある何かが、
日本語バージョンには欠けているように思うのです。

「厚いから」という理由で遠ざけていた本を開いたのは、
これを読むよう勧めて下さった方への篤い尊敬の気持ちからです。
人が前に一歩進むには、教師が必要です。
では本の主役であるスワミ・ヴィヴェーカーナンダは、
読み終わった時に、一体何を教え与えててくれるでしょうか。





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      ドッキネッショルの近くにある、スワミジーの像。
      カメラの日付設定の間違いで、日にちは大幅に違っています。
   











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by haru-ha-akebono | 2016-02-09 18:38 | 聖典を学ぶ | Comments(0)

聖夜のこと

24日、クリスマス・イブを祝う集まりが、
逗子の日本ヴェーダーンタ協会で行われました。
ヴェーダーンタ協会はインドのラーマクリシュナ・マト&ミッションの
日本支部で、ヒンドゥーのお寺なのですが、
「信仰の数だけ真理への道はある」という、
ラーマクリシュナの説いた教えの通りに、あらゆる宗派を拒否せず、
礼拝するのです。
この夜は、何曲かのキャロルを参加者で歌い、
協会長のスワミジの聖書の朗読と講話がありました。

この数日前、新約聖書の言葉が書かれたカードを友人に送ったところ、
「とても感動した」というメールが返信されてきました。
クリスマスが近づくと、様々な店にカードを売る場が出来ます。
しかし、今年はピカピカの凝ったカードを見ても、きれいだなと思うだけで、
買うことはしませんでした。
聖書の言葉が書かれたカードは、御茶ノ水の聖書を売る店で見つけたのです。
お祭りではなく、パーティでもなく、商売でもないクリスマス、
キリストの生まれた意味について考える日でありますように・・・。
そんな思いがありました。
そのカードには、2人の修行者と復活したキリストの3人が
森を歩く姿が描かれています。
素朴な、しかし気持ちを惹きつける何かが表れているその絵は、
手元になくなった今も、目に焼き付いています。

様々な世情をはらんだ問題、その影響を受ける個人の問題は、
しかし、政治や他人のせいではなく、
永遠に変わらないもがあることに気づかない人の心が生み出していると、
今はっきりと感じるのです。


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by haru-ha-akebono | 2015-12-28 01:43 | 聖典を学ぶ | Comments(2)

起こることはすべて善いこと

ラーマクリシュナが信者たちに話して聞かせた、
森に狩りに出かけた王様と大臣の物語は、
人間がいかに近視眼的に、人生に起きることを捉えているかを示すものです。
数年前、リシケシのシバナンダ・アシュラム
(正式にはディヴァイン・ライフ・ソサエティ)から副総長が来日され、
伊豆でリトリートを行った時に、講話でこの話をされました。
インドの古くから伝わる物語なのでしょうか。
副総長は、この話を題して、
「人生に起こることは、みな善きこと」と言われたのですが、
出来過ぎたようにも受け取れるこの話を、
その時は離れた気持ちで聞いているだけでした。

2か月ほど前に、購読している「不滅の言葉」という雑誌が届き、
同じ逸話をラーマクリシュナが話していたことを知りました。
『起こったことが悲惨そのもの』だとずっと悲しんでいたわたしは、
この、起こることには必ず意味があると書かれている箇所を見て、
それから毎日考えました。
『意味・・・?』
『わたしにとってそれは一体なんだろう?』

何か大切なものを失ったと思って苦痛を味わっていても、
実はその背後で何かを得ているのではないでしょうか。
苦痛を投げ出さないということで、
すでにそれを乗り越えようとする力を生み出している・・・。
そもそも苦痛とは、
新たな価値観を生み出すにあたって起こる自然な現象なのかもしれません。
そして、怒りや悲しみを手放す努力をしてみる・・・。
そんなこと、したことがなかったことに挑戦している自分がいるのは、
あらたな驚きでした。

霊性の世界に、世俗の価値観を持ち込むと
問題をいつまでも解決することは出来ません。
そして、この道は一人でいくもの。
他人に守ってもらうことなどあり得ないのです。
自己の探究の道を行くにはとても大きな覚悟が必要で、
この物語はその力強い道連れになってくれると思います。







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by haru-ha-akebono | 2015-12-12 01:17 | 聖典を学ぶ | Comments(0)

反対のことを考える・その後

反対のことを考える、について2回書きました。
「その2」で、「嫌いな人のことを考えてしまう」時には、
「好きな人のことを考える」という提案をしました。
その後思ったのは、「好き」と「嫌い」はいつもセット、
コインの裏表のようなものなので、あまり効果がないかもしれない、ということです。
世俗の、「好き嫌い」は、永遠ではなく終わりがあります。
たとえ親子の愛でも、束縛があります。
兄弟姉妹も必ずしも仲がいいとは言えないこともありますし、
まして、友情や男女の愛には、永続性というものは期待できません。
好きはやがて嫌いになる、憎しみに変わることもあります。

それはなぜか、というと、これらの愛は束縛とセット、
「わたし」という「自我」から生まれる感情だからです。
「愛」というよりは、情動や所有欲、と言う方が正確です。
世俗の人の感情は、常に二元、つまり、好き・嫌い、良い・悪い、
幸・不幸、善・悪、と言った対立するものがセットになっているのです。

「反対のことを考える」ことで、考える対象は
もっと高い、永遠や真理にしましょう。
ちょっとこれが漠然とした感じなら、
あなたが好きな神様や、マントラや、聖者の言葉にします。
これをずっと続けることが、瞑想になります。


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by haru-ha-akebono | 2015-05-30 13:36 | 聖典を学ぶ | Comments(0)

反対のことを考える その2

反対のことを考える・・・プラティパクシャ・バーヴァナという
メソッドと言っていいのか、聖典「ヨーガスートラ」に載ってるものです。
ネガティブな思い、これは多くの人が意識しないまま通常抱いている気持ちなのですが、
これが湧き上がった時に反対のことを考える、これがプラティパクシャ・バーヴァナです。

わたしも、ヨーガや心理学を学ぶ以前は、
自分の気持ち・心の動きを、
ネガティブ、ポジティブなどと考えたことはなかったのです。
また、通常なぜ意識しないまま気持ちがネガティブになっているかというと、
世間から入る情報は概ねネガティブであり、
それを無防備に受け取っているのが一般的な暮らし、だからです。
TVなどのマスコミュニケーションからは、
事故・犯罪・災害などのニュースが絶え間なく提供されています。
それを受け取っている、情報源の前にいる人間は、
そのネガティブな印象に知らずしらず染まっているのです。
そう、ネガティブなことが当たり前なのが一般社会の生活で、
ポジティブだとつまらなくなっているのです。
所謂、『嘘っぽい』のです。
それに、ポジティブなことはニュースになりませんから。

数週間前、「反対のことを考える」という記事を書いた後、
ヨーガ教師をしている友人から、『実例を挙げて書いてはどうか』と連絡がありました。
友人の生徒さんが、わたしのブログは難しいと言ったとか・・・。
まず、思ったのは、「ネガティブ」ということ自体が自分と関係があるとは
思えないのではないかということです。
理由はもう、上記しました。
ネガティブな生活にドップリと浸かっていると、
自分がネガティブかどうかわからなくなりますから。

例えば、特に「清らか」を目指していない霊性の修行をしていない人々は、
日常的に、他人を簡単に『好き』だの『嫌い』だのと言ってるのではありませんか?
その『嫌い』が人によっては深刻になっていくことがあります。
そうした時、初めて人は悩みます。
嫌いな人のことを考えた時、どんな気持ちでしょうか?
いい気持がする人は稀、とても稀だと思います。
その気持ちが自分とほぼ同化したら、どうすればいいのか・・・。
そこから抜け出すには、『好きなひとのことを考える』のです。
一度、嫌いを脇に置いて、好きな人のことを考えましょう。
急に、または徐々に、気持ちが楽になってくると思います。
そうしたら、もう嫌いな人のことは考えたくはないはずです。
これが、「反対のことを考える」です。
すごくシンプル。
でも、案外思いつかないでしょう?
聖者って、すごいなと思います。




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by haru-ha-akebono | 2015-04-24 00:10 | 聖典を学ぶ | Comments(0)

反対のことを考える

異国にて、ある時、無意識に行っていました。
“今、ネガティブな感情が広がっていたら、
その反対のことを考える・・・。”
これは、『プラティパクシャ・バーヴァナ―』と言われる実践で、
「ヨーガスートラ」で有名なパタンジャリがそう呼んでいました。
滞在も後半、毎日がネガティブな思いに支配されていた時、
急に“反対のことを考えよう”と思いつき、トライしてみました。
大成功!!
気持ちが急速に楽に、ポジティブになっていきました。

帰国して間もなく、
インド大使館で行われている「バガヴァッド・ギーター」の勉強会に行きました。
その時、この『プラティパクシャ・バーヴァナ―』のことが話に出たのです。
以前も同じスワミジの講話でこの方法について聞いたことがありますが、
一つの技法の話、として聞いていたのです。
異国で実践してみた経験者の自分は、聖典や聖者の残したものは
やはり真実なのだと、この日痛感していました。

何か、もっと日常からかけ離れた聖典の話が高尚のように捉えている方がいます。
何年も、インド哲学やヨーガの勉強を続けてきた人に多い気がします。
(偏見かもしれませんが。)
一年に一回、少し難しいテーマのリトリートがあったとします。
私も参加したことがあります。
さて、その講話が、リトリートが終わって家に帰って、役に立っているのでしょうか?
何泊かして、集中的に瞑想に取り組んだとして、家に帰ってもずっと続けているのでしょうか?
聖典は、学んで、自分の生き方に結果として現れなければ単なる学問です。
瞑想も、毎日続けなくては意味がないのです。
数日、日常とかけ離れたことを学ぶためにお金と時間を使って、
それで終わりなら、それはリゾート、気晴らしに過ぎません。
気晴らしでも全く構わないのですが、本人は何か霊的なレベルが上がったと錯覚していると、
それはマーヤーの覆いが厚くなっていることで、目標が一層遠のいてしまいます。

すぐに実践できることから始め、徐々にそれを増やしていけば、
確実に心は清らかになり、マーヤーの束縛が薄くなっていくことでしょう。




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by haru-ha-akebono | 2015-04-11 00:16 | 聖典を学ぶ | Comments(2)

聖者の教え

聖典は、学んで実践するためにあるのだとずっと思っていました。
でも、聖典やヨーガ哲学の本を読むだけで偉くなった、
充分学んだと思っている方が少なくないのを知り、違和感を覚えました。
そもそも、聖典やヨーガ哲学の本は、それを読んで実践することで
「無知」を取り除く手助けになるものであって、
読んだだけでは「無知」はなくなりません。
実践とは何も瞑想することだけではなく、
「聖者の教え」を日常生活の中で行うことなのです。
例えば、他人の悪口を言うことで「無知」という心の暗闇が増殖します。
ホーリーマザーの言われたように、他人の欠点を見ただけで不幸になるのです。
試しにやってみると、この言葉が嘘ではないことが分かります。

実践は、自分を変えるためにするのです。
つまり、「今の自分」は唯の「無知な人=エゴに満ちた人」なので、
無知=エゴを減らす努力をせねばなりません。
そのためにはどうすればいいか、が聖典には書かれています。
読んだだけだと、唯の読書なのです。




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by haru-ha-akebono | 2015-04-07 23:37 | 聖典を学ぶ | Comments(0)