はるはあけぼの ヨガDiary

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もう一度聖典を学ぶ~リトリート in 伊豆その後

伊豆のリトリートのスワミジの講話を、シャンティ・ヨガクラブのホームページに載せるため、
数人が、録音したレコーダーから文字に起こし、
それをシャンティのマキ先生と私が校正しています。
なかなか、根気のいる仕事です。
集中力もいります。
リトリートに参加した人たちの力が合わさった、力作です。
ちょっと一区切りつき、ホッとしています。
年末か年始には、シャンティのホームページにアップされることと思います。
皆さん、読んでくださいね。

今日は、少しの合間に、虎屋某支店でお茶しました。
和菓子喫茶は、落ち着いた年齢の女性がほとんど。
のんびりとした時間が流れていました。
もうすぐ南インドのラマナ・マハリシのアシュラムに行きます。
南インドは、チャイより珈琲かな?
南インドは31年ぶりです。

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by haru-ha-akebono | 2012-12-21 23:50 | 聖典を学ぶ | Comments(0)

風に揺れる小船

職場の移動の話しがあり、今の部署には問題があるからそれは丁度良かった、と言う人に会いました。
今の部署には自分の苦手な人がいて、ずっと長いこと悩んでいるようでした。
でも、移動して解決するのでしょうか?
ただ、状況から逃げるだけです。
苦手な他人から逃げることは出来ても、自分の心から逃げることは出来ないのです。
他人の言動に自分の感覚や心が刺激されて、いつもあたふたしていることに気づかないうちは、
また同じ問題が繰り返されることになります。

以前、インド大使館で行われている「バガヴァッド・ギーター」の講義の時に、
『他人の言動で自分の心が左右されている』という話しが出ました。
まさにそれなのです。
相手が言った言葉や行った行動が、自分の感覚器官を通して入ってきても、
心を眺めることが出来たら、その影響を受けなくて済むのです。
その訓練がヨーガなのです。

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自分の心を刺激し不快感を起こすから、相手は悪い人間だったり、デリカシーに欠ける人間だったりします。
反対に、自分の気持ちを良くする褒め言葉やお世辞を言う人は、良い人ということになります。
自分の気持ちは他者の言動にあっちこっち揺れ、
また他者に対する評価が全く自己中心的な『自分に都合の良い人は善人、都合が悪い人は悪人』
を基準に組み立てられているのです。
これらはみな心のすることであり、
また心が自分の本質であると勘違いしているから苦しみは無くなるどころか、増すばかりです。
さっき褒められて良い気分になったのに、次の瞬間、誰かに批判されて落ち込んでしまう・・・・。
一時も気持ちは休まることはありません。
こんな馬鹿げたことのために時間を使っていると気がつくことが出来たら・・・、
生きる目線が変わる、はず。

一気に賢者にはなれなくとも、自分の心は自分の一部であって本質ではないから、
眺めていればそのまま変化してしまうと分かるでしょう。
そうしたら、自分の本質はいつも静かであること、
眺める者こそが自分だと理解することが出来るでしょう。

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by haru-ha-akebono | 2012-12-11 01:01 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)

メメントモリ~死を想え

歌舞伎の勘三郎さんが亡くなりました。
同じ年だし、まだまだ真っ盛りの人なので、とっても驚きました。
自分が物心ついた時にはもうTVに出ていたし、
近年はご家族で成長記録的な番組もあって、いつも観ている印象でしたが、
歌舞伎のライブは一度も観ることはありませんでした。
歌舞伎は好きで、市川猿翁が猿之助だった時には年に2回は歌舞伎座へ行きましたが、
猿翁が病に倒れてからは足が遠のきました。
それでも、若者を歌舞伎に誘う企画を沢山立てている勘三郎さんの公演には、
一度は行こうと思っていながら果たせませんでした。

「いつか」
これはやっては来ないものなのでしょう。
いつか行こう、いつかしよう、いつか、いつか・・・・。
そう、行きたいと思ったら「今」しよう。
したいことは、すぐ行動に移そう。
「今」を阻むものはなんでしょうか?
明日もあると思う、まだ先が続くと思う、安定と安全を望む気持ちです。

さて、昨日から、「秋のソナタ」という映画がデジタルで再生されて公開されています。
何年か前の映画ですが観ていません。
監督イングマール・ベルイマンは、人間の欺瞞や偽善を剥いでいく、
とてもシビアな作風と理解していますが、何作かを観たのはもう大分前のこと。
今の自分はどう受けとめるのかも気になりますが、
何より「観ておけば良かった」と後悔しないようにしたいです。

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by haru-ha-akebono | 2012-12-09 23:39 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)

行為と識別

「バガヴァッド・ギーター」の学習の時に、
『奉仕だけでは悟れない』と、スワミ・メダサーナンダ・ジからのお話しがありました。
奉仕(カルマ・ヨーガ)をしている時にも識別が必要です、とのことです。
識別は、自分の心を観察しどんな状態かを見分けることです。
賢者は、自分の心を『良い心と悪い心』に分けて見ることが出来るのです。
何かの行いをしている自分の心は、果たして良いのか悪いのか?
悪い心が優位をしめていれば抑制をします。
奉仕をするとき、どうしてもうぬぼれが出てきます。
奉仕をする自分は、与えられている相手より優位にいると感じること、
また、奉仕をする動機が優越感から出ていることも多々あります。
そこをチェックするわけです。
自分を対象化するクールな知性が必要になってきます。
その『知性』こそ、高い心つまりブッディというもの、認識する知性なのです。

『わたしはカルマ・ヨーガはするけれど、ギャーナ・ヨーガは嫌い』という人がいるようです。
ギャーナ・ヨーガは哲学の学習、本ばかり読むことではなく、本で得たその知識を
実践に役立てるため必要不可欠なものです。
奉仕や仕事をする自分を観察するためには、ギャーナの知識の背景がなくては出来ません。
行為と識別は切り離せないのです。
二つのことを通して、人の心は高い認識力を発展させていくのです。
ひたすら行為=カルマのみをしても、そこに生まれる欲望に気づいてコントロールをしなければ、
決して人のブッディは成長することはなく、
それどころかその欲望ゆえに、せっかくの奉仕・仕事=行為が自分を転落させていくことになるのです。

反対に、哲学を容易に理解する頭のインテリジェンスは持ちながら、
『何でこんなことを他の人たちは理解できないの?』と、他者を見下す場合。
これもうぬぼれなのですが、こちらも行為と哲学から得た識別知を結びつけないため、
自分の心を見ることが出来ないのです。

ヨーガはインテグラル=総合的なものです。
どれかが嫌い・好きという思いが、そもそも欲望であり、悪い心のなせる業なのです。

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by haru-ha-akebono | 2012-12-07 01:01 | インテグラル・ヨーガ | Comments(0)

学ぶとは・・・・

1日に、インド大使館で「バガヴァッド・ギーター」の勉強会がありました。
11月は先生であるスワミ・メダサーナンダ・ジがインドに里帰りされていて、勉強会はお休み。
しばらくぶり、新鮮な気持ちで講義を聴きました。

まず、「バガヴァッド・ギーター」をはじめとするする聖典を学ぶことは、
二つの種類があるとのお話しがありました。
まず、知識として哲学の内容を知りたいという、頭の中だけの勉強。
もう一つは、自分の人生の生活・目的として、哲学の内容を実践する学習。
聖典を実践することはとても面白く、安定した生活と智慧を得られるが、
突然に結果は出ない。
これはトレッキングと同じで、少し進んでは時々滑落し(堕落し)、また登っては進む、
という苦闘の連続いですが、他に楽な道はなく、方法はこれしかないそうです。

何が実践の邪魔をするのか?と言うと、私たちの心です。
わたしたち人間はいつも外の対象に感覚を向けています。
それによって、心はいつも落ち着かない状態になります。
心の中には沢山の欲望があり、感覚による刺激でその欲望が顕れるのだそうです。
ヨーガの識別の実践をしていないと、こういった心の働きに気づかないまま、
感覚に心が惹きつけられ、いつもあちこち彷徨っていなくてはなりません。
欲望の奴隷になって生きることになります。

苦しい・楽しいといった状況と、心は別なのですが、識別をしていかないとそれは分からないままです。
しかし、識別の実践をしていても、心を抑制することは難しい、
でもあきらめてはダメ!前に進む、あきらめずに立ち向かう!!
これが「バガヴァッド・ギーター」の教え。
とても前向き、ポジティブ、というお話しに、勇気づけられました。

実践が難しいのは、堕落したままになるからと言うよりは、
そんな自分はダメだ、とあきらめてしまうからではないかと、スワミ・ジのお話しを聴いていて思いました。
自分は弱い、出来ない、もうやめよう、と思ってしまいがちです。
でも、堕落してもまた立ち上がって、前に進みなさい、生きることは苦闘の連続、修行も苦闘の連続。
戦場を舞台にしているこの聖典の面白さが、段々感じられるようになってきました。


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by haru-ha-akebono | 2012-12-06 01:09 | 聖典を学ぶ | Comments(0)

荷物は少しで・・・・その2

スワミ・ヨーガスワルパナンダ・ジと共に過ごした伊豆のリトリートから帰って、
「荷物は少しで・・・・」という題で記事を書きました。
それから間もなく、家の不用品の整理を始めました。
もうすぐ大掃除の季節だし、と思ってやってみると、これが大変。
長年住んでいる家なので、もう使わないどころか記憶になくなっていた物が沢山ありました。
それらを皆一様に捨てるのではなく、
リサイクルショップに販売を委託したり、男性用の衣類はナーラヤン活動に持って行ったり、
本はブック・オフへと、行き先は様々です。
長年仕舞ってあるために汚れてしまった物は潔くゴミに出しました。

何日もかけて整理をしていますと、
この『物』に、エネルギーを吸い取られるような感じがしてきました。
『物』はタマスです、動かないという点において。
物は用途があって成り立っているはずなのに、
それを購入した動機は、見てきれいだとか、物珍しいとか、魅了されたからとかで、
それによって生まれる所有欲が、その物を『自分の物』にするわけです。
必要性を感じて手に入れたのではない場合、
手に入れたことで満足して忘れられていくのです。

この忘れられていた物は、確かにきれいであるけれど、
自分を一時はその魅力で虜にしたけれど、
あってもなくてもいいものなのです。
なくてはならないなら使っていますし、存在を忘れることはありませんから。
その類の物を目にしていると、とても虚しくなりました。
我がエゴの滞積です。
必要でもない物を所有することで、大事な何かから逃げていた・・・。
自分と向き合うことを避けていた・・・。
一時、違う自分になれたと錯覚していた・・・。
少しの間、痛みや辛さを忘れたかった・・・。

片付けの最中、11月のナーラヤン活動がありました。
その日のことをブログに書きましたが、越年を前に越冬事業の話しが出たのです。
そしてそのすぐ後日、豪奢な漆の工芸品を創る作家の方と会いました。
何万円、何十万円もする品物がどんどん売れていくのです。
この現象界が理不尽なものなのは充分理解しているつもりでも、
その落差に何か釈然としないものを感じていました。

この物質の世界を超えたい・・・・!!

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by haru-ha-akebono | 2012-12-01 00:59 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(1)