はるはあけぼの ヨガDiary

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お土産

アルナーチャラの旅の自分へのお土産は、
ラマナ・アシュラム書籍売り場で購入した本やCDの他に、
布製のショルダーバッグが2つあります。
アルナーチャラの絵が描かれている物と、
もう1つの方には、こんな文章が英語で書かれています。

  「わたしは誰か?Who am I ?」 という想念は、
  他のすべての想念を破壊するだろう。
  そして、燃えている火葬用の薪が更に燃え上がるようにとくべられた枝木のように、
  それは(わたしは誰か?という想念)、ついにそれ自身をも破壊するだろう。
  その後に、真我は顕れるのだ。
  



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 ラマナ・アシュラムの書籍売り場
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by haru-ha-akebono | 2013-02-26 00:23 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)

2月の炊き出しの会へ~ナーラヤーナ活動

2月22日(金)、日本ヴェーダーンタ協会のナーラヤーナ活動の日でした。
毎週金曜日に行われる寿町の炊き出しの会に、ヴェーダーンタ協会が参加するのは第4金曜日です。
わたしは今年初の活動でした。
2012年12月29日から始まった越冬炊き出しの最終日の1月3日の夕方に参加する予定でしたが、
風邪で行くことが出来なくってしまいました。

お昼頃に炊き出しの行われている公園に着くと、
今月初めて、インド大使館と逗子の例会にいらしたKさんが、既に到着していました。
炊き出しのことやお互いのことを話していると、
間もなくバナナを積んだ協会の車が到着しました。
ナーラヤーナ活動の責任者のSさん、
協会のボランティアのコーディネートをして下さっているMさん、
若い女性信者さんが一人、
そして、先日スワミ・ヴィヴェーカーナンダの生誕祭で講話をしてくださったスワミ・シャマーナンダ・ジ、
その4人が車から降りて来ました。
いつも参加している方たち以外のボランティアは、
ヴェーダーンタ協会から6人、
そして神奈川県内のアメリカンスクールから先生と生徒さんが10名ほど。
人手が多いほうでした。

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配食は正確な数は聞いてきませんでしたが、おそらく700食前後だと思います。
寒かったせいか、14時頃にはなくなりました。
今日、配食を知って食べに来て手伝っているという若い男性と、
協会のボランティアで、果実とお漬物を配りました。
野沢菜のお漬物、蜜柑、バナナがあって、どれも人気ですが、
蜜柑はバナナほど数がなくて足りなくなり、残念がるホームレスの方が多かったです。
シャマーナンダ・ジは、手馴れた様子で雑炊を丼によそってサーブをしたり、
食事中のホームレスの方たちと気さくにお話しをされています。
いつもにこやかな表情で、日本語が出来るために、皆さんスワミ・ジと話をしたがって、
そう出来て喜んでいました。

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 オレンジ色の衣の方がスワミ・シャマーナンダ・ジ

配食が始まる前に、この日初めて参加した女性2人に
ずっとこの活動を続けているSさんが、「ナーラヤーナ活動」の意味を話されました。
  『所謂上から目線のボランティではなく、ホームレスの方の中に神様を見て、
   そのお世話をする気持ちで行って下さいね。』
これは、ラーマクリシュナ・ミッションの救済活動の根幹なのでしょう。

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わたしは、昨年この活動に参加を始めました。
協会がナーラヤーナ活動を始めたのは3年ほど前のことで、
その時から参加してみたかったのですが、何事も時間が必要なのでしょう。
そして、年末にアルナーチャラに行く際、随分悩んだことがあって、
この日は『自覚』を持って出掛けて行ったのです。

配食の後は、食器の回収と洗い場の仕事をし終了、
協会のボランティアの方たちと遅い昼食を摂りました。
シャマーナンダ・ジがいらっしゃるだけで、場の空気が違います。
口数の少ない方ですが、静寂とは無口だからと言うわけではないことに気がつきました。
こちらの中の静寂さも引き出されてくるようで、ずっと消えずに残りました。

『すべての活動の中には、基本原理としてサット(真理)が存在している。
 それを心にとどめながら行いをしなさい。』・・・「ラマナ・マハルシとの対話」より、バガヴァーンの言葉
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by haru-ha-akebono | 2013-02-24 14:19 | 炊き出しの会のこと | Comments(0)

内側へ・・・

昨日、逗子の日本ヴェーダーンタ協会で行われた、
スワミ・ヴィヴェーカーナンダの生誕祭に行って来ました。
「ラージャ・ヨーガ」「カルマ・ヨーガ」等など、
様々なヨーガを説いた書物は、読むたびに違う表情でこちらの気持ちに迫ってきます。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、1893年9月、世界宗教会議に出席するため、
船で何ヶ月もかかってシカゴに向かいます。
その後、ロンドンも廻って講演を行い、4年後にインドへ帰国。
その帰途、おそらくコロンボで行った講演で、
『20世紀になってから、南インドで真我の力があふれ出す』という発言をしていたそうです。
これは、バガヴァーン・シュリ・ラマナ・マハルシのことでしょう。
「バガヴァーンとの日々」という本に書かれているのですが、
なぜそんなことが予感出来たのか不思議です。

午前中は、お祝いのプージャがラーマクリシュナ・ミッションのやり方に則って行われました。
約2時間ほどでしょうか・・・。
参加者全員で祭壇にプシュパンジャリ=献花をしました。

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午後のプログラムは、ヒマラヤのマヤヴァティのアシュラムから来日されている、
スワミ・シャマーナンダ・ジの講話。
スワミジは日本人です。
ラーマクリシュナ・ミッションの僧侶となり、マヤヴァティのアシュラムで修行と仕事をされています。
講話のテーマは「スワミ・ヴィヴェーカーナンダの教え」。
話は短く、簡潔で分かりやすいものでした。
しかし、話されたご本人が言うように、
「ヴィヴェーカーナンダの教えは分かりやすいが、実践は難しい」
のです。

確かにその通りです。
文字で読んでいると分かるけれど、実践してみると、その道のりがいかに困難かが、よくわかります。
その講話の後に質問者の問いに答えるスワミジの口から、
アドヴァイタの代名詞のように、バガヴァーンの名前が出ました。
マヤヴァティは神様やラーマクリシュナなどの写真や像は一切置かず、
オームの文字が飾られているだけ。
対象を祈る、対象を瞑想するのではない。
ニルグナ=無形瞑想を行う修行をする。
自分の内側を観察する瞑想を行うそうです。
質問者へ、自分の内側をもっと観察しなさい、と答えられていました。

祈る対象が外側にある、瞑想する時にイメージする対象がある。
その対象を見ているわたしは誰なのか?
それを問わない限り、終焉しないものがある。
その後顕れるものが唯一である『存在』。
スワミジのお話しを伺いながら、そのように考えていました。
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by haru-ha-akebono | 2013-02-18 01:35 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)

向き合う

家の近くに、魅力的な陶芸品を扱う店があります。
今年初の個展が始まり、新進若手作家の華やかな作品が並びました。
様々な意匠をほどこした器や皿に感嘆はしますが、手は出ませんでした。
以前なら何か買っていたと思います。
「次から次へ、魅力があると感じた物を買い集めていたら、沢山の物を持っていたら、
 一つの物ときちんと向き合えないのではないか?」
その様な思いが浮かんできたのです。
「わたしはこれまで、いくつかの器たちときちんと向き合ったことが合ったろうか?」
そう思うと、これは器に限らず、他の物事にも当て嵌まるように思い至りました。
通り過ぎて行った沢山の出来事や物たち、そして人々。
普通に行っていると思っていたことが、上の空のような気もそぞろのようなことばかりだったのでは・・・。

アルナーチャラの旅から帰って来て、気づいたことでした。
・・・・向き合う・・・・
それをしてこなかった自分は、そうしていくことが必要になったのだと思いました。

やめるか続けるか、昨夏から随分迷ったバイオリンのレッスンを続けることにしました。
昨年の秋、「自分には段々難しくなっていくようで、続けられるかな・・・?」と言うと、
先生は「大事なのは、上手く弾くことではないのよ」とおしゃったのです。
その時は、その意味がよくわかりませんでした。
今、それは、自分のペースで音と向き合うことや、
美しい音を出す弾き方を見つけることで、
何でもいいから一曲を仕上げることではないと、自分なりに答えが出たのです。
自宅での練習が義務ではなく、楽しくなりました。

そして何より、ヨーガを教えることが楽になったのです。
自分の教えたいことや知識の押し付けではなく、
その時々の相手の『現在』と向き合うことが大事なこと。
ヨーガを求めて来た人と、その時間を共に生きること。
教える側と教わる側の壁が消えた、と思いました。

向き合うことは、現在(いま)の中に浮かんでいることのようにも感じられます。
向き合うことは、静かでゆっくりとしている・・・・。


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by haru-ha-akebono | 2013-02-11 00:06 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)

わたしは誰か?

ブログを読んでくださる方の中に、
「とても勉強になります」
と、メールをくださる方が時々います。
今年は他人の勉強にならないようなブログにしたいと、天邪鬼なわたしは思いました。
自分が書いたものや発言したことを他人がどう受け取るかは、
相手の自由なのですが。
そもそも、ヨーガには「勉強」という言葉は似つかわしくない気がします。
わたしにとって、ヨーガとは身体を使うハタ・ヨーガも含め、霊的(スピリチュアル)な修行だからです。
修行の助けになる勉強は必要だけれど・・・・。
やはり「勉強」という言葉は、しっくりこないのですね。

天邪鬼な上に疑り深いわたしは、「善い人」とか「善い行い」なども苦手です。
「善いことを考え、善い行いをしなさい」という言葉をスローガンのようにアシュラムに掲げた聖者がいます。
『それは確かにそうだけれど、そうしたくても出来ない人、つまり私のような者はどうすればいいの?』
まず、そう思ってしまうのです。
また、この言葉はおそらく深い意味を持っているのでしょうけれど、
単純なだけに誤解をして受け取られることもあるのではないでしょうか?
他人とは仲良くしましょう、思考は伝播するから他人を悪く言ったり思ったりしてはなりません、
などなど。
そうして、結果、自分の自然に起こる感情をエゴで縛っていくことになるのではありませんか。
ヨーガは道徳ではありません。
ヨーガは良い人になるためにするものではないはずです。
善い行いや善い思いを抱くことは、徳を積み心を清めるためであり、
来世を今世よりもっと善きものにするため、早く解脱を成し遂げるためなのです。

人間の本性は、本来善も悪もないはず。
真実は善悪を超えたところにあるのです。
「善き」がある限り、「悪しき」があります。
自分の中の二元性(移ろうもの)を識別することこそが大事だと思います。


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 アルナーチャレシュワラ寺院から臨む、聖山アルナーチャラ
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by haru-ha-akebono | 2013-02-02 00:13 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)