はるはあけぼの ヨガDiary

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最高を目指すにはガイドが必要です

スワミ・ヤティシュワラーナンダ著 「瞑想と霊性の生活1」という本を読んでいます。
この本は、4年前の1月にリシケシ行くことになっている私に、
当時通っていたヨーガ教室の先生が、読んでから出掛けるようにと勧めてくれたものです。
もう1冊勧めてくださった「永遠の伴侶」と共に、急いで注文して読みましたが、
出発前に読み終えることが出来ず、2冊とも持って出掛けました。
リシケシには3ヶ月滞在したので、もちろん読み終えたのですが、
何が書いてあるのかよく分からなかったのだと、今読んでいて分かりました。
その時は、字面を追っていたのです。

しかし、当時とても印象に残ったのは
『高次の偶像を崇拝するのでなく、血の通った肉体を持つ偶像を崇拝してしまうこと』
の問題を書いたところでした。
“人間の偶像には高い理想は見出せない”
その時の自分は、そうなりかけていたところもありました。
今、やはり男女の形をとった偶像を崇拝する方々が、ヨーガ関係の集まりに行くと、必ず見かけられます。
沢山のエゴを持った人間であるヨーガの先生の足にタッチしたり、
その人が信じるグルとその人を同一視して、崇拝したりするのです。
それがなぜ良くないかと言うと、
エゴを持つ人間を崇拝することは、私たちを愛憎の執着劇に縛り付けるからです。
本来、魂の解放を目指している、ヨーガや霊性の修行の場で、
束縛が起きるのでは何もなりません。
そういうことが起きるのは、本当に霊的に高い崇高なものに触れる機会がないからでしょうか。
最高の存在を見たら(感じたら)、そうでないものは見分けがつくようになります。
また、手近な存在に自分を依存させてしまう、自分の安易さや怠惰さに気づかねばなりません。
お手軽には、いつも危険が伴うものです。

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この本は、霊性の世界の最高のことについて、ガイドをしてくれています。
これを読んだら、ヨーガの目的が少し変わるかもしれません。
最高のものは、実は自分の内奥にあるのだと、次第に気づくことになります。

さてこの本は、実は2冊目。
リシケシを発つ時は、向こうで買った本や何やかやで、
スーツケースは一杯になり、ゲストハウスの本棚に置いてきたのです。
「永遠の伴侶」も買って、もう一度読んでみなくては・・・・。
スワミ・プラバーヴァナンダが書かれたこの本は、
まさに『求道者の「永遠の伴侶」だ』と、宣伝コピーに書かれています。

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by haru-ha-akebono | 2013-03-27 00:22 | 聖典を学ぶ | Comments(0)

生命エネルギーの拡大

『激しく働きなさい、そうすればおまえは浄化されるだろう。』
これは、グルディブ・スワミ・シヴァナンダジが、
一番若い直弟子のスワミ・サッテャーナンダに言った言葉です。
その言葉の通りに、サッテャーナンダは、カルマ・ヨーガの只中で覚醒を遂げます。
サッテャーナンダは子供時代から多くの霊的体験をしたため、
20歳の時に、グルを探して家を出たのです。
リシケシのディヴァイン・ライフ・ソサエティのスワミ・シヴァナンダ・ジと出逢い、
その弟子となって、献身と奉仕の生活に入りました。
この時代、リシケシには虎やサソリが出るし、
飲み水から生活用水をガンジス河に汲みに行かなくてはなりません。
今、わたくしどもがしているカルマ・ヨーガとは比べものにならない程大変だったのです。
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身心が清められないと、何事も始まりません。
ずっと昔、心理学を学んだ時に「エネルギー不滅の法則」を知りました。
人間の生命エネルギーには、機械的なエネルギーと創造的エネルギーの二通りあるというものです。
詳しくは忘れましたが、
創造的なエネルギーは、使えば使うほど活発に循環するというのです。
エネルギーが無くなるということはないそうです。
また、気功治療を行う或る方の本を読んだら、宇宙のエネルギーをいただいて治療をしているから、
疲れない、ということが書かれています。
つまり、自分の肉体は宇宙エネルギーを通す道具のようなものだと言うのです。

疲れの原因の多くは、自分を肉体や心と同一視しているからでしょう。
自分と自分の所有物(家族などの人間も入ります)を守りたい、という思いは誰しもが持つものですが、
それが強ければ、その保存のためにエネルギーを使うことになります。
これは、創造的エネルギーではないので、使用に応じてエネルギーは失われていきます。
保存とは、創造・保持・破壊という宇宙の法則に反した行為ですから。
肉体や心への執着の放棄の練習のために、カルマ・ヨーガがあるのです。

それから、瞑想が創造的に行われていれば、
段々に、何かをして疲れるということはなくなると思います。
自分の心、エゴのカラクリを、
他人事のように、見物人になって眺められるようになれば、
執着する機会が減ってくるからです。

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by haru-ha-akebono | 2013-03-25 00:35 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)

3月のナーラーヤナ活動~炊き出しの会とさなぎ達のこと

昨日は風もない快晴。
横浜寿町の炊き出しの会に行きました。
第4金曜日は、日本ヴェーダーンタ協会の参加する日です。
正午近くに、炊き出しの行われる児童公園へ着くと、
先月初めて活動に参加されたKさんが、もう来ていました。
若いKさんは、わたしから見てとても行動的な人です。その視線は、いつも真っ直ぐ。
早速、一緒に食器(雑炊を入れるどんぶり)を、台に並べました。
この食器は、使用後は除菌洗剤で洗ってから消毒し、大きなポリバケツに入れて1週間保管します。
水がついたまま保管するため、水カビが出たものは水で洗って使用します。

食器がすべて並べられた頃、ナーラーヤナ活動の責任者のSさんと
3人のボランティアさんが到着しました。
先日の、ラーマクリシュナ生誕祭でお会いした方ばかり。
その中の一人は、日本に長く住んでいるというインド人女性のMさん。
とても明るくて、人懐こい方です。
それから間もなく、協会の車が到着し、寄付品のバナナを降ろしました。
女性信者さんが一人同乗していて、この方も活動に参加。
皆でお祈りをしてから、
Sさんが初参加の方たちに、ラーマクリシュナ・ミッションの奉仕活動の姿勢について説明をしました。
その後、丁度配食が始まりました。
青山学院高等部の生徒さんたちのボランティアも加わって、
活動する側の人員が潤っています。

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わたしはKさん、初のボランティアの男性Hさんと共に、食器洗いをしました。
好天のせいか、700食以上用意した雑炊はあっと言う間に終わりです。
食器洗いはずっと休むことなく、流れ作業が続きましたが、1時間ほどで仕事はすべて終了。
その間、寿町の炊き出しやホームレスの支援と、他のドヤとの違いを
長くボランティアをされているらしい男性から伺いました。
寿町は支援体制が整っていること。
新宿の中央公園は、ボランティアではなく、ホームレスの人たちが自ら炊き出しをしていること。
他にも色々と・・・・。
そう、確かに寿町のホームレスの方々は身ぎれいです。
自宅の沿線の電車や地域センターで見かけるホームレスと思しき人々は、
もっと汚れた服装をしていますし、疲れた表情を浮べています。

仕事の後、公園から歩いて10分ほどの所にあるファミリィ・レストランで、皆で昼食を摂りました。
インド人女性のMさんはヴェーダーンタ協会には何度もいらしているそうですが、
他の方は協会に先日来たばかり、またはボランティアは初めてのため、
乞われるままに、Sさんはラーマクリシュナ・ミッションの思想について話をされていました。
  『信仰の数だけ真理への道がある』
これが、ラーマクリシュナ・ミッションの考え方です。
だから、どのような信仰を持っていても、どのグルを信じていても、
訪れる者は拒絶せず、受け容れる。
ラーマクリシュナは宗教の普遍性を説いた。
その大きさに魅かれる人たちが集まってくるのでしょう。
まだ若い人たちが、とってもストレートに、理屈ではなくやって来るのは、
霊性の力の吸引力なのでしょう。
ヨーガの先生でもなんでもない、つまり勉強のためなどではなく、
自分の感性や直感で求めるままに来ているわけです。
頼もしい・・・、と思いました。

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レストランから駅まで歩く途中に、さなぎ食堂とさなぎの家がありました。
ヴェーダーンタ協会は、炊き出しの会とさなぎの家に関与しています。
さなぎの家には、衣類や日用品を寄付しているのです。
ちょうど食堂の前に、会の運営をしている男性のSさんがいらして、
さなぎ食堂の写真を撮らせてもらいました。
昨年、NPO法人になりホームページもあるそうです。
帰宅して、早速見てみました。
見知らぬ他人の命をつなぐ仕事をしている人たちが、こんなにいることに驚きです。

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by haru-ha-akebono | 2013-03-23 23:20 | 炊き出しの会のこと | Comments(0)

ラーマクリシュナ生誕祭へ

昨日、ラーマクリシュナの生誕祭が逗子の日本ヴェーダーンタ協会で行われました。
かなり沢山の方(100名以上)がいらして、行事を行うための別館は満員。
わたしは、ボランティアとして仕事をするため、
朝6時過ぎに家を出て、逗子に向かいました。
協会に到着すると、既に沢山のボランティアさんたちが立ち働いています。
まず聖所に御参りをしてから、仕事に加わりました。
生誕祭は10時30分から、
午前中プージャ(礼拝の儀式)、献花(プシュパンジャリ)、ホーマ(護摩焚き)、が行われました。
すべてラーマクリシュナの生誕を祝うための神聖な儀式です。

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  祭壇の前で讃歌を歌われる、スワミ・メーダサーナンダ・ジ

昨年末、アルナーチャラを訪れて、真我探求のジュニャーナ・ヨーガの道を行く決意をしました。
この思いに、今も揺らぎはありません。
そして、帰国して新年、インド大使館で行われている「バガヴァッド・ギーター」の講義に行きました。
講師のヴェーダーンタ協会のスワミ・メーダサーナンダ・ジが時々言われるのは、
 『ギャーナ・ヨーガ=識別の道はとても難しい。
 心が清められていないと、様々な矛盾が出て来て、なかなか前進出来なくなる。
 心を清めるには、カルマ・ヨーガが大事。それから、識別の道へ進むのが良い。』
ということ。この時も、講義の流れの中でその話しが出ました。
確かに、バガヴァーンの「ウパデーシャ・サーラ」の3番目に同じことが書かれています。
 『神への奉仕として働くことは、心を清めて解放への助けとなる』
自分の中で漠然としていたカルマ・ヨーガを、とても大事だと思うようになりました。
(わたしの場合は、『それから』ではなく、カルマ・ヨーガと識別の同時進行ですが。)

自分の周囲にもありましたが、現実生活からの逃避のためにギャーナ・ヨーガに走るケース。
そのことについても、「バガヴァッド・ギーター」の時間に、スワミジは話されます。
カルマ・ヨーガは働きが伴います。
生活の糧を得るための仕事が嫌なのですから、ヨーガの修行で働くことはもっと嫌。
すべてを放棄して、座って瞑想していればいいからと、ギャーナ・ヨーガを選ぶわけです。
でも、識別の道はそんなに甘くはないのです。
また、ギャーナの本を読んで、書いてあることを理解すれば悟れると思っている人もいますが、
そんなに簡単ではありません。それなら、本を読んだ人は皆、悟れることになります。
そして誤解があるようですが、外側の世界を放棄するとは、
現実の生活の中の活動をすべてやめることではありません。

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また、自分の家族だけに向けたサービスをカルマ・ヨーガだと思っている方々もいるようですが、
勿論それも含まれるけれど、自分と自分の家族・身内のことだけを考えるのは苦しみの源だと、
メダサーナンダ・ジは言います。
生活の糧を得る仕事と、全く見返りを期待しない仕事も必要なのです。
この場合の『見返り』とは、金銭ではなく、行為の結果を期待しない、
それを行ったのは神であって、自分は単なる神の道具であると自覚することです。
このように行為を行った後には、疲れがありません。
清々しいものが残ります。
わたしの場合、親の介護は大きなカルマ・ヨーガだと思っていましたが、
やはりかなりの執着があったことを、親の死後に気がつきました。

午後は、メーダサーナンダ・ジの講話と音楽プログラム。
講話の中で、『ラーマクリシュナは、無限の喜び、無限の力、無限の知識、を持っていた』と話されていました。
偉大な聖者のいる時代に生まれ、バガヴァーンやラーマクリシュナに会ってみたかった・・・。
これが、いつも思うこと。

今年になって、この様な集まりで、何人かの方とお知り合いになることが出来ました。
神聖なものを求めてやってきたのが伝わります。
ストレートにこの道へ入っていける人。
本を読みそれから何年か時間が経っているけれど、
この日初めて協会を訪れ、早朝の礼拝から参加されて、ボランティアも自ら進んでされている方がいました。
また、遠くからでもかならずやって来る人。
人それぞれ。
紆余曲折あった自分とはまた違う人たちとの出逢いが、何かを与えてくれている気がします。
これは、グルの恩寵でしょう。

それから、夕拝の時に「ラーマクリシュナの讃歌」を歌っていて思い出したのは、
まだ10歳にもならない子供の時、同級生と訪れたカトリック教会の日曜学校のこと。
家族はクリスチャンではなく、教会の建物や賛美歌の美しさに惹かれ、
自発的にしばらく通っていました。
あの時が始まりだったのだ・・・。

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       夕べの礼拝
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by haru-ha-akebono | 2013-03-18 17:56 | 祈りの言葉 | Comments(0)

シヴァのハートの中心

朝マドゥライを発ち、10時間程バスで走った頃、
夕暮れの景色の中に、突然現れた、アルナーチャラ!!

アーッ!!とかワーッ!とかキャーッ!!!とかではない・・・。
声は出なかった。
真っ黒なそのシルエットは、ティルバンナーマライの街並みを背景に、
空に貼り付いているように見えた。
目が釘付けになった。

ただ、その前に平伏すしかない、黙るしかない、その様な存在が、この世にあると知った。

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by haru-ha-akebono | 2013-03-09 00:01 | アルナーチャラへ | Comments(0)

さなぎの家のこと・2

寿町にある「さなぎの家」は、昨年12月に近くの翁町へ引っ越しました。
生活に困窮した方たちの不足を満たすためのボランティア活動を広く行っている、
グループ「さなぎ達」は、さなぎの家やさなぎ食堂を運営されているそうです。
今まで詳しく知りませんでした。
移転した翁町の方は、ホームレスの方たちが集う場所であり、
寄付品はそちらへ納めることになったそうです。
今までのさなぎの家は、
炊き出しが行われる寿児童公園界隈のホームレスの方々が憩う場所になったそうです。
ホームレスの方々は日中の居場所がなく、
特に暑い季節、寒い季節は困るので、このような場所の提供が必要とされるのでしょう。
わたしの住む地域のあたりですと、区民センターや図書館などで、
家がないのであろうと思われる人をよく見かけます。
「ナーラーヤナ活動」に参加するようになってから、無関係の人たちとは思えなくなりました。
だからと言って、個人では何も出来ません。

さなぎの家では、
 下着、靴下、タオル、石鹸、歯ブラシ、歯磨き、髭剃り、毛布
が不足とのことで、募集しています。

日本ヴェーダーンタ協会に持参、または送ってくださるか、
ナーラーヤナ活動のある日(毎月第金曜日)に、児童公園までお持ち下さい。

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by haru-ha-akebono | 2013-03-06 00:05 | 炊き出しの会のこと | Comments(0)

眠りから覚める時

朝、目が覚める時、いつ「わたし」が生まれて来るのか、それを目撃しようとするのだが・・・。
肉体の目が開ききらないうちに、「わ・た・し」は現れる。

「わたし」は、例えば『〇〇聖者の教えに従えば幸福になれる』という考えを、
そのまま受け入れることは出来ない。
従いさえすれば幸福になれる教えの、何を信じればいいのだろう?
その『幸福』とは、一体何なのだろう?
それは、あの「わたし」(=他人)や、この「わたし」(=自分)の心が創り出した、想念に過ぎない。
実体のない想念にすがることが、探求であるはずはない。

眠りに就く時は、いつ「わたし」が消えて行くのか、それを目撃しようとするのだが・・・。
あっと言う間に、思考が存在しない束の間の至福へと落ちて行く。

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by haru-ha-akebono | 2013-03-05 01:46 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)

さなぎの家のこと

毎月1回、日本ヴェーダーンタ協会が行っているナーラヤーナ活動。
その日は、寿町の児童公園で行われている、「炊き出しの会」に参加して、配食のお手伝いをしています。
その他に、公園の近くにある「さなぎの家」へ、衣類や日用品の寄付も行っています。
協会で募ったそれらの品を、配食の前に持って行きます。
(もちろん、他の団体からの寄付もあります)
こちらは常時受け付けていますので、
ご自宅で眠っている男性用の衣類がありましたら、協会にご連絡をお願いします。
衣類は、中古でも新品でも結構ですが、普段着をお願いします。
ビジネスマンが着用するような物は受け付けていません。
今は特に、タオルや靴下が喜ばれるようです。
女性のホームレスの方もいますが、女性用衣類は嫌い男性用を着用されるとのことです。
また、日用品は未使用の物をお願いします。
石鹸、歯磨き、歯ブラシ、髭剃りなどです。

    詳細と連絡先はここをクリック 「活動/ホームレスの神様への奉仕」の項目をご覧下さい。


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まだ枝だけなのに、強い桜の香りがする、千鳥が淵の桜の木
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by haru-ha-akebono | 2013-03-05 00:43 | 炊き出しの会のこと | Comments(0)

ウパデーシャ・サーラ~教えの精髄

バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシの「ウパデーシャ・サーラ」。
その初めには、「行為は行為に帰結するだけで、解放をもたらさない」と書いてある。
行為=カルマは新たなカルマを生むからだ。
「だが、どんな執着も持たずに、神への奉仕の精神で行ったことは、心を浄化し、解放への道を示す。」
と続く。結果に執着を持たずに行った行為は、心を浄化し、解放への道標となる。
しかし、まだこれも直接真理へとは結びつかない。

沢山の想いの源は『わたし』である。
「どこから、その『わたし』が現れるのか?それを『内部』に探しなさい。
 そうすれば、それ(『わたし』という想念)は消滅する。これが、知識の探求である。」

「教えの精髄」は30頌ある。


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 スンダラム・マンディラム(ラマナの生家)の祭壇
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by haru-ha-akebono | 2013-03-01 00:09 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)