はるはあけぼの ヨガDiary

haru2918.exblog.jp
ブログトップ

<   2013年 05月 ( 19 )   > この月の画像一覧

導くもの

アルナーチャラの旅の最中に、
「あなたにはサット・グルがいないのね」
とツアーの参加者の一人に言われました。
わたしのブログを読んで、様々な聖者について書いているわたしを
フラフラ心が混乱した人間だと思ったそうです。
ラマナ・マハルシのツアーに参加しながら、
あっちのグループ、こっちのサットサンガ、
と参加しているのはよろしくない、そんなことも言われました。
しかし、わたしは、本を何冊か読んだくらいで、
「この人はわたしのサット・グルです」などとはどうしても思えませんでした。
どんなに教えが素晴らしくても、もうこの世に肉体がない人を、
2~3冊本を読んで知ったからと言って、
グルなどと思えなかったし、言いたくありませんでした。
何より、相手に(聖者に)対して失礼だと思ったのです。

何度も訪問したリシケシでは、
グルを持つことは本当に霊性の修行をして悟る気持ちがあることの証です。
グルはもちろん悟った人で、その人の言うことは絶対なのです。
結婚するよりももっと強い絆が生まれると、或る方から聞きました。
同じ人をグルに持つ人同士はグルバイと言って、霊的兄弟姉妹となります。
こちらも、血縁のつながりよりも絆は強いのです。
それを聞いた時、また実際にグルに仕える人たちを見たり、
そのダルシャン(グルに、霊的な修行をする上での様々な障害について質問をすること)
の場に伺ったりして、
サット・グルを持つということは、もう退き返せない修行に入ることなのだと実感しました。
こちらが生半な覚悟では、サット・グルにはなってもらえませんし、
サット・グルを見つけることも容易なことではありません。

聖地に行っても、
空き時間のほとんどを、感覚の欲求を満たすお買い物に費やしている
(そのこと自体は悪いことではありません)俗人には、
まだグルは必要ないのではないかしら・・・。
多分、ラマナ・マハルシが今肉体を持ってこの世にいたら、
「あなた方はまだグルを持つ霊的レベルではありません」
と、この時言ったに違いありません。
グルとは、ヨーガの指導をしてくれる先生とは違うのです。
また、肉体がないグルは何も言いませんから、時に好都合でもあります。

b0237103_03313.jpg


さて、わたしはにフラフラしていたわけではありません。
きちんと霊的なヨーガのことを実践し学べる場を探していました。
ただ慎重で、何処に行っても懐疑的でした。
自分の通っているヨーガ教室の先生が勧めるからとか、
いいと思ったらワーッと感情的になだれ込むとか、
そういうことはしたくありませんでした。
いつも一歩退いて冷静に眺める気持ちで、あちこちの集まりに参加していました。
自分の内なる声を大事に、妥協はしたくなかったのです。
聖者は、皆素晴らしいでしょうけれど、
人間は朱に交われば赤くなる、グループのありようは大事だと思ったのです。
観点のポイントは、わたしの場合
まとめる立場の人が、参加している人たちを愛憎で支配しないことです。
多くの集まりは、この問題が起きていると感じました。

アルナーチャラに行ったのは、
ラマナ・アシュラムがどんな所か見てみたかっただけなのですが、
旅の途中で冒頭のようなことを言われ、精神的に負担になっていました。
帰国してから、或る時自分の気持ちを偽ってブログを書いていることに気が付きました。
正直になれず、無理をしていたのです。
同時に、「もうラマナ・アシュラムには行くことはないだろう」と思っていました。

その直後、
ヴェーダンタ協会で2月に行われたスワミ・ヴィヴェーカーナンダ生誕祭の時、
自分の気持ちが偽りなく、急速にこの場に引き寄せられ始めていることに気が付いたのです。
場と言うのは正確ではありません、その場にある霊の力に、です。
また、それまで、自分はマハーラージ(協会長のスワミ・メーダサーナンダ・ジ)の講話を
とても表面的に受け止めていたことや、この世界のはかり知れない奥深さを実感し始めたのです。
そう直感する具体的な出来事があった、と言うのではありません。
自分の意図ではなく、まさに起こったのです。
それは、無理も緊張もなく、緩やかな自然な出来事でした。

b0237103_23513767.jpg
 今年2月のスワミ・ヴィヴェーカーナンダ生誕祭
  
[PR]
by haru-ha-akebono | 2013-05-30 22:26 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)

グル その2

スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、
『あなた自身の崇高な自己のみを礼拝せよ。』
という言葉を残しました。
そして、
自分が神々の中の至高の神であると知るまでは、
どんな自由(つまり解放)もやって来ないだろう、と続きます。

スワミ・ジは、自分を信じない人は神を信じることは出来ないと言うのです。
自己とは、神でありグルでもあります。
グルは外側にいるのではなく、自分の真の姿、自分を導くものなのです。



b0237103_23335563.jpg

[PR]
by haru-ha-akebono | 2013-05-29 23:35 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)

ヴィヴェーカーナンダロック 2

ヴィヴェーカーナンダロックのことをブログに書いたら、
ナーラーヤナ活動のときに話題になりました。
もう30年も前に、どんな風にしてカニャクマリまで行ったのか、
一緒に昼食を摂った参加者の方たちから聞かれました。
その時、カメラは持って行きましたがほとんど撮らず、
ましてそんな有名な岩だとは知りませんので、
手元には入場の時のパンフレットしか残っていません。

ヴィーヴェーカーナンダロックで検索していたら、
とても綺麗な写真を見つけました。
[PR]
by haru-ha-akebono | 2013-05-28 00:24 | シャクティの力 | Comments(0)

真の友

『そのときはきみは自分の心の中の声を聞かなければならない。
 そしたらぼくがきみの中にいることに気づくよ。』
                  ・・・・ヘルマン・ヘッセ著「デミアン」

自分を導くのは自分。


b0237103_0112117.jpg

[PR]
by haru-ha-akebono | 2013-05-28 00:11 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)

快晴!!・・・ナーラーヤナ活動

昨日はナーラーヤナ活動の日でした。
雲一つない快晴。
わたしがこの寿町児童公園に来るようになって、こんな快晴は初めてのことです。
今回3回目という、ヴェーダーンタ協会の信者さんのYさんと石川町の駅で待ち合わせ、
公園に着いたのは12時前。
もう協会からの寄付品のバナナは届いていました。
まず、そのバナナを箱から出して、房を1本のバナナに切り離す作業を始めました。
1本になったバナナはポリたらいに移し替えます。
作業が終了すると間もなく、
3月からずっと参加しているインド女性のMさんがやってきたので、
公園前の道路の日陰で、Yさんと3人で立ち話をしました。
配食が始まる1時までは、もう仕事がありません。
そこへ、寿の住人であるらしいおじいさんがやって来て、
なんだかんだ、話しかけてきます。
炊き出しに対する様々な質問・疑問を投げかけてきました。
どこまで真剣に質問しているのか、何回も同じことを聞くのです。
一つ一つ応えていましたが、おじいさんは飽きてしまったのか公園の中に行ってしまいました。

いつの間にか、やはり3月から参加されている男性のHさんも到着。
Hさんは、幼い子供4~5人が生活館の前に座っていることに気づき、
バナナを持って行きました。
後で気がついたのですが、裸足の子がいたのです。
インドでは、小さな子供たちが、外で裸足で遊んでいるのは当たり前ですが、
ここでそのような身なりの子供たちを見かけて、驚きました。
前は自分に余裕がなかったせいか、気が付かなかっただけなのかもしれませんが、
若者、身なりの良い人(まだ今はということ)、小さな子供、
が炊き出しに食事を貰いに来るようになっています。
わたしの主観に過ぎないのか、簡単には言えませんが、複雑な気持ちです。

いつもは正午過ぎに始まるラジオ体操が遅れて開始、みんなで参加しました。

b0237103_137092.jpg


快晴のため、正午を過ぎたらとても陽射しが強くなり、
そのせいか、ホームレスの方々の列がすかすかしている気がしました。
後で分かったのですが、今月は第5金曜日があり、
最終金曜日に一番沢山の配食が出るのだそうです。
それは、生活保護費を使い果たしてしまう月末だからです。

b0237103_137206.jpg


午後1時、配食開始。
昨日は主食の雑炊以外に、バナナ、4つ割にした夏蜜柑、鰯の煮付けがありました。
バナナは400本、これはすぐに終りました。
蜜柑は数が多かったのと、貰わない(酸っぱいのが苦手という理由が多いです)人がいて、
最後まで配っていました。
鰯は先月と同じ位の数があったようです。
配食は丼の数で、550食。
暑くなってくると雑炊は食べにくいので、お鍋を持参し持ち帰る人が多かったそうです。
鍋に入れて簡易宿泊所に持ち帰り、丁度良くなった温度の物を食べ、、残りは夜に食べるそうです。

b0237103_137434.jpg


そうそう、ラジオ体操の最中に、ナーラーヤナ活動の責任者のSさんが到着しました。
来月、協会ではスワミ・ヴィヴェーカーナンダの生誕150周年記念祝賀会がインド大使館であり、
そのことで平素も忙しいSさんは更に忙しくなっていて、
いつもより遅く到着し、仕事が終るとすぐに帰って行きました。
仕事終了後は、Sさんを除く4人で、いつも行く近くのファミリーレストランに行きました。

石川町駅で待ち合わせたYさんは、わたしと同じ名前なのです。
わたしのブログを偶然見つけて読むようになってくださったそうです。
よく、協会のセバ(奉仕をインドではこう言います)で見かける彼女を、
わたしも「可愛い笑顔の人」と気になっていました。
インド女性のMさんは日本在住が長く、日本語が上手。
もちろん書くことも出来ます。
インドでは、ラーマクリシュナ・ミッションの僧侶は、
僧侶たちの中でも、特に尊敬を受けている存在だと話してくれました。
わたしたち日本人はそんなことはよくわかりませんので、
協会長のスワミ・メーダサーナンダ・ジをまるで学校の担任の先生か何かのように、
気軽に質問したり、接したりしています。
しかし、スワミ・ジはラーマクリシュナ・ミッションの根強い奉仕活動の精神を実践し、
このナーラーヤナ活動にも、その考えが反映されています。
また、東日本大震災の後にあった「バガヴァッド・ギーター」の勉強会で、
『この大自然災害にはどんな意味があるのでしょうか?』
となされた質問に、
『様々な意味はありますが、それよりも災害に遭った方々を助けましょう。』
と、メーダサーナンダ・ジは答えられ、
数名の信者さんたちと、すぐにいわきに支援物資を持って赴かれたのです。
現地へ行かなかった人たちも、支援品を寄付しました。
これは、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの「立ち向かう精神」の実践なのです。
こうしてミッションの教えを実生活の中で実践していくことは、
まさに「バガヴァッド・ギーター」の教えでもあります。

b0237103_13264389.jpg


男性のHさんは、3月から奥様と熱心に協会を訪問されるようになった方です。
積極的に協会のお手伝いをされたり、
さっきの子供たちへの配慮と同様の気遣いをどなたにもされたりします。
気取りや、権威的なところが全く感じられない方なのです。
4人の会話ははずみ、いつの間にか夕方になっていました。
帰る道すがら、Yさんに少しだけ、最近思ったすっきりとしないことを話すことが出来ました。

どこの国にも、霊性の世界のセクト化というのはあるのでしょうか?
スワミ・ヴィヴェーカーナンダの言うように、
この世界にはただ一者だけしか存在しないのに、
自分の信じるものと他所の信じるものは違う、と分割化して政治のセクトみたいにしている現象に、
いいかげん嫌気がさしました。
自分達しか見えなくなってくると、同じような嗜好の人たちだけで集まっていると、
他者を理解出来なくなるのでしょう。
「偏り」を「純粋」と言ってしまえばそれまでです。
実際には使おうとしない(使えないとは言っていません)、
フリーズドライ化された思想(哲学?)だけがあって、
それを生きた命として理解しなければ、何の意味もないと思うのです。

どの人も、自分の生活があり、俗世間で生きています。
そこはどの人にとっても修行の場であり、
「バガヴァッド・ギーター」の言う戦場であって、
わざわざ自分は「修行者」だの、「瞑想者」だのと言わなくてもいいのです。
プライドは、真理を遠ざけるからです。

ラーマクリシュナは宗教の普遍性を説いた、そこにわたしは最も惹きつけられました。
ここで、その師の教えを伝える
ヴィヴェーカーナンダの言葉をいくつか挙げることにします。

『わたしの国の宗教やあなたの国の宗教があったこともありません。
 数多の宗教などは存在したことがありません。
 かの一つの宗教があるだけです。』

『真理は一つであろうがしかし同時に多数である、
 われわれはさまざまの立場から、同一の真理をさまざまな姿に見るのである。』

『彼らはただ、彼ら自身の利己的な目的のために争っていたのでしたー
 真理に熱心だったのではなく、「わたしの名」と「あなたの名」に熱心だったのです。
 彼らの中の二人が同じ真理を説きながら、
 その一人は「あれは真実ではない、わたしの名が入っていないから。
 それゆえ、かれの言葉には耳傾けるな」と言うと、もう一人は
 「かれの言うことを聞くな。大そうよく似たことを言っているけれど、
  わたしの名で話しているのではないから、あれは本当ではない」と言うのでした。』

b0237103_159318.jpg


スワミ・ヴィヴェーカーナンダ生誕150周年祝賀会の詳細は、ここをクリック
[PR]
by haru-ha-akebono | 2013-05-25 01:38 | 炊き出しの会のこと | Comments(0)

迷走者!?

自分の修行に関することは人には話さない、見せない、これはどんな信仰でも同じでしょう。
例えば、ジャパを行う時に周りに人がいる場合、
数珠(マーラー)を繰る手は布で覆ってすることになっています。
一人きりならば、隠す必要はありません。
そのマーラーを首に掛ける時は、服の中に入れるようにして、
ネックレスのように見せたりはしません。
神聖な行為は人に隠して行うことが、決まりとなっています。

或る時、「わたしは瞑想者です」と言った人がいて、何も返答が出来ませんでした。
毎日瞑想を行うから、自分は瞑想をしない人とは違う何かを持っている、と言いうのです。
そう言えば、
或るヨーガのリーフレットに載っていた人の肩書きが「瞑想家」となっているのを見た時も、
ちょっと違和感を覚えました。
「瞑想を教えている」とか、「瞑想センター主宰者」というならわかりますが。
瞑想は、あくまでも自分のために行うもの、
内なる自己(SELF)と自分との関係です。
ですから、聞かれてもいないのに、自分から進んで人に話すことではないでしょう。
こんな言い方を、インドではするでしょうか?
アシュラムに行ったら、「瞑想者」だらけです。


b0237103_135841.jpg

[PR]
by haru-ha-akebono | 2013-05-22 01:05 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)

トリートメントの時間

昨日、エサレン・ボディ・マッサージを受けました。
友人のKさんが、今このマッサージの勉強中で、資格取得には
35人の施術をすることが課題の一つとなっていると言うのです。
して貰いたいな~と思っていて、やっと予定が整いました。
このマッサージを受けるのは初めてです。
エサレンは表現アートセラーピーで有名な場所なので、名称として知っていましたが、
マッサージもあるとは!!知りませんでした。
施術場所はKさんの家。
最初は問診ですが、なんだかカウンセリングになってしまいました。
静かに傾聴してくれるKさんに、どんどん話していました。
自分では流していると思ってもそうではなかったこと、
意識してはいても話すことでやっと気づきになること、などなど。
平素は、話を聴く立場になることが多いので、
じっくりと聴いてもらえるだけで、既にトリートメントになっているようでした。

マッサージは、ゆっくりとしたペースで時間をかけて全身行います。
これはKさんのオリジナルですが、今やはり練習中のシンギング・ボウルとの組み合わせもあり、
音の振動で身体のエネルギーを回すことも行いました。
体の精妙な現われが心、心の粗大な現われが体、とハタ・ヨーガ(体を使うヨーガ)では
言いますが、まさにその通り。
体の物理的なコリばかりではなく、色々な精神面の滞りが体に現れているのです。
また、リラックスしてくると、潜在意識に沈んでいた問題が浮上しますが、
意識化されればもう問題ではなくなるのです。

b0237103_022372.jpg


マッサージの手技は強からず、弱からず、とても上手。
この1年、特に昨年夏からは様々な変化がありましたが、
「忙しかったのですね」と、Kさんに言われるまでその認識がありませんでした。

Kさんは同じヨーガ教室のお仲間でした。
わたしが一人でリシケシに行っている時に、
彼女はそのヨーガ教室のツアーでリシケシにやって来て知り合ったのです。
Kさんを含む4人ほどが、
わたしが滞在しているゲストハウスに、ハタ・ヨーガクラスを受けに来たのです。
スワミ・ヴィシュワルーパナンダ・ジのハタ・ヨーガをとても気持ちが良かったと、
ずーっと味わうようにしているKさんに、同じ波長を感じました。
日本に帰っても、時々ヨーガのイベントや教室で再会しました。
それから、ヨーガ教室の指導員養成コースに入って勉強していると聞いていましたが、
突然マッサージの勉強を始め、それを天職とするらしいと知ったときには驚きました。
でも、会うたびに、精神的に成長して充実されているのがお顔に見てとれました。
段々、成長しながら若返っているように見えるのです。
いい生き方をしているのね~。
昨日、マッサージにもその波動を感じました。

間もなく、もう1ランク上の施術を学ぶと、グレードがまた上がるとか。
認定試験に合格すれば、チラシとブログを作って活動を始めるそうです。

b0237103_034891.jpg

[PR]
by haru-ha-akebono | 2013-05-22 00:34 | インテグラル・ヨーガ | Comments(0)

清められること

「サーブ、ラブ、ギブ」 
これは、グルディブ・スワミ・シヴァナンダ・ジの有名な言葉。
「他者の中に神を見て、奉仕しなさい、愛しなさい、与えなさい」
ハタ・ヨーガを始めたヨーガ教室には、グルディブの写真と共にこの言葉がありました。
この言葉の後には、
「ピューリティ、メディテイト、リアライズ」と続きます。
他者に奉仕をし、与える(慈善を行う)ことで心や魂は清められる、
そういう意味です。
グルディブは西洋医学の医師でしたが、
身体が健康になっても人は幸福にはなれないことを知り、出家をします。
リアライズするまでの修行はとても厳しい過酷なものだったようです。
聖者とは、そういう目的のために修行をするのです。
心身が清められていない時・・・これが人間の普通の状態ですが、
自分のことで精一杯で、他者を助けようなどとは思えないものです。

昨日、ヴェーダーンタ協会の逗子例会で、
ラーマクリシュナの愛、奉仕、についてを講話の中で伺いました。
ラーマクリシュナ・ミッションは、修行と奉仕の二つが僧団の目的です。
他者への奉仕はすなわち神への奉仕です。
神は自分のうちにあるのですから、
他者への奉仕とは自分へのお恵みになるのです。
自分だけが悟ることを目的にする、という修行はありえないと思うのです。

b0237103_1724513.jpg

[PR]
by haru-ha-akebono | 2013-05-20 17:07 | 聖典を学ぶ | Comments(0)

Tat Twam Asi

すべてに遍在し、全知・全能であるブラフマン(真我)は、
清らか、純粋、ピュア、自ら光り輝くものである。
修行でも学習でも、その場は清らかであることが必須だと思う。
初めて一人で行ったリシケシから帰って、
そういうことを意識したのは、ヨーガ塾というところに行った時だった。
清らかな空間だと感じた。
その後、初めてヴェーダーンタ協会に行った時にもそう思った。
清められている場所とは、限られているのだろう。
学ぶ、とは内容も大事だけれど、この清らかさがポイント。
それが人を惹き付けるのだ。
わたしはそこに魅かれるのだ。
俗世間にはない、何か・・・。
学習・修行の場が俗世間と同じでは、行く意味がないと思う。

b0237103_0485573.jpg

[PR]
by haru-ha-akebono | 2013-05-18 00:50 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)

以前ブログに書いたヘルマン・ヘッセの小説「シッダールタ」に、
美しい写真が添えられた「シッダールタの旅」という本を書店で見つけました。
新書版ほどの大きさで、写真がとても綺麗で、内容と引き立て合っていると思います。
ヘッセの小説は沢山は読んでいませんが、中学生の頃から影響を受けてきました。
「シッダールタ」はヨーガを始めてから読みました。
生きることは、一人で真理に到達することだという、究極のテーマを扱っています。

自分は誰か?何者なのか?
これは、10代後半からのわたしの疑問、自分への問いでした。

   『自分は自分自身について学ぼう。
    自分自身の弟子となろう。
    シッダールタという秘密をよく知ろう。』
シッダールタのこの言葉は、そこ(自分自身の中)にしか回答はないということを示しています。
シッダールタは、人々の中で様々な遍歴を経て、川の流れから或ることを学び、悟りを得ます。

悟りを得るかと思うとき、我が子との関係をきっかけに苦悶し、
世間の人々を平等に心から愛するようになるところは、
禅の十牛図のようでこの物語のハイライトと思えます。

b0237103_23543981.jpg

[PR]
by haru-ha-akebono | 2013-05-14 00:01 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)