はるはあけぼの ヨガDiary

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すべてをなさる方

若い頃、
人生は、努力すれば、計画通りに運ぶものだと信じていた。
それは、自分の力で動かせるものだと思っていた。
思う通りにならないと、自分が至らないからか、と辛かった。


「 風のなかの落ち葉のようにこの世に生きなさい。
 そのような葉は、あるときは家の中に、あるときはごみの山に吹きやられる。
 木の葉は風の吹くままに飛んで行く・・・・ときには良い場所に、時には悪い場所に。
 いまや、神がお前をこの世にお置きになったのだ。
 結構なことだ。ここにいなさい。
 また、彼がお前を持ち上げてもっと良い場所に置いてくださったら、
 今度はどうしたらよいかをその時に考えても十分に間に合うことだ。
 神がお前をこの世に置いてくださったのだ。
 そのことについて、お前に何ができるのだ。
 彼にすべてをお任せしなさい。彼の足元に自分を捧げきりなさい。
 そうすればもう困ることはない。そうしたら、いっさいのことをなさるのは神だ、とさとるだろう。」
                ・・・・『ラーマクリシュナの福音 第33章』より・・・・

一体自分はどのようにしてこの世にやって来たのか、
やって来たのになぜ去っていくのか・・・・。
自分の力で生きているのではない。
何者かが、生かしているからこの世にいる。



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by haru-ha-akebono | 2014-08-24 01:12 | シャクティの力 | Comments(0)

楽しいことは嫌い?

今月の初め、ヴァイオリンの発表会がありました。
始めて8年くらい経ちますが、ちょっとした事情で
発表会を機に、しばらくの間お休みすることにしました。
家の開かずの押入れから古いヴァイオリンが出てこなかったら、
一生弾かなかっただろう憧れの楽器です。
しかし、大人になって始めたのを言い訳に、
上達はしない、と決め込んで、練習もあまり熱心ではありませんでした。
ところが、一年に2回ほどある発表会(1回は年末の、ヴァイオリンを弾いた後にケーキを食べる会)に
毎回来てくれている友人が、
『昨年より音が力強くなった気がする』と言ってくれました。

習い始めて間もなく、先生が『上手に弾く必要はないのよ』と、
音楽は楽しむものだと教えてくれました。
みんながプロの演奏家になるために音楽を学ぶのではなく、
上手く弾くために練習するのではなく、
家族や友人と演奏し楽しむことが『音楽』であると知ったのです。


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わたしは美術の学校を出てデザインの仕事をしたり、
今は誰もが楽しめる美術の現場にかかわっています。
でも、学校時代、絵を描くことが苦手でした。
学校では絵に点数が付けられ、
本物そっくりにデッサン画を描ける人は「優秀」な生徒と言われるからでした。
美術の学校に行きたいと思ったのは、
絵を描くことや、物を創ることが好きで、
学校でもそれをずっとやっていたかったからです。
でも、学校は、プロの絵描きやデザイナーを養成するところで、
美術を楽しむところではありませんでした。

美術や音楽は、とかく仕事に結びつける、つまりプロになるものだという
固定観念が蔓延していることに気が付いたのは、
ヴァイオリンの先生の言葉を聞いた時でした。
自分の思考の中にも、その観念は育っていました。

音楽も美術も、誰もが楽しむためにあり、
上手・下手は関係ないものだと思います。
何かをクリエイトすることは、楽しむことは、
人間の生きる力を生み出すのではないでしょうか。
その中で、プロになる人は自然になるでしょう。
「稼げないから、そんなものは子供にやらせない」
と言った方がいます。
でも、そうじゃなくて・・・・・。


高齢者施設での、誰もが楽しめる造形のプログラムの時間に
お手伝いに行くようになってから5年が経ち、息苦しさを感じるようになりました。
「プログラム」という制約は描くきっかけには必要ですから問題はそこではありません。
施設で造形を提供する側から参加する方々への、ある種「上から目線」や、
このプログラムを実施するための人を養成する際に作られた
「級」という制度を盾に、同業者の中で上下関係を作り出している現状に、
疑問を抱くようになったのです。
「級」が上になったらと言って、感性まで一緒に上になるわけではありません。
これはセンスを常に磨く努力が必要です。
そして、「級」が設けられる理由は、養成校にお金が入るという事情も絡んでいます。

また、「プログラムを滞りなくこなせればいい」という気配。
それはアートプログラムを提供する側の勝手な都合であって、
絵を描く側の気持ちや、それを行う目的は無視されているわけです。
施設には様々な制約があって、
プログラムを実施させてもらうためには、
「滞りない」ことや、施設の規則に従わなくてはならないのですが、
肝心の参加者の方々の心が置き去りにされているのでは、本末転倒です。
高齢者施設で行われている、
お仕着せの手工芸に疑問があって始まったこのアートプログラムも、
見せかけだけのものになってしまうのです。

そこに在る人の気持ちより、
実施する側の規則や時間、お金や肩書を大事にすると、
クリエイティブなことからは遠ざかってしまうのです。
みんな、楽しむのが嫌いなのかな?



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by haru-ha-akebono | 2014-08-15 18:02 | アートの時間 | Comments(2)

この肉体がわたしでしょうか?

地域の活動で高齢者の方々とかかわりを持ち、思うことが沢山ありました。
臨床美術を通して、高齢者の方たちとは長くかかわっているのですが、
地域では、「美術」というツールなしに、個人個人の日常生活のお手伝いをしたのです。
過去形になっているのは、単なるヘルプは自分には向いていないらしいと自覚、
一年を機に辞めようとしているからです。

デイケアなどの通所サービスに通っている方は、体力が落ちたり、身体の介助が必要であったりします。
そうではなく、元気で一人で概ね何でも出来、そして独居の方たちは、
かかわってみて、内面は孤独だったり孤立していたりしていると感じました。
(そういった立場の高齢者さん全員がそうだと言ってるのではありません。)
経済的には困っていないのに、介助は必要ないくらい自立しているのに・・・。
お宅へ生活援助(家事)をしに伺う者に、その方々は、過剰に感情を向けてしまうのです。
いつも一人でいると、住居に手伝いに来る人を、まるで家族のように感じるのでしょうか?

私自身は高齢と言うほどの年齢ではないですが、
後どのくらい生きられるのか?と考える年ではあります。
でも、ヴェーダーンタを学んできて、人は真の生きる意味を追求せずに老いると、
多かれ少なかれ、後悔や寂しさを感じるのではないかと思うようになりました。
人は、いつまでも感覚の欲求を満足させることで時間を潰しては生きていけないのです。
働き盛りの頃の栄誉や繁栄は、老いの前にはなんの役にも立ちません。
まして、肉体の死の前や後には。
そのことに気づかず、死の迫る寂しさの救いを外の世界や他者に求めても、
益々寂しさが募り、傷つくだけでしょう。

一体自分は誰か? 
死した後はもう生まれてくることはないのか?
果たしてこの肉体が、本当の自分なのか?

生きるとはこれらを解明していくことで、そのために転生を繰り返していくのです。


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by haru-ha-akebono | 2014-08-01 00:37 | わたしは誰か?Who am I? | Comments(0)