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はるはあけぼの ヨガDiary

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タントラの世界へ~シヴァとシャクティ

私にとって、「気づき」とは、「今ここの自分の感情」に気がつくことだった。
スワミ・ヴィスワルーパナンダ・ジは、「気付きとは、なんとなく体や心の変化を眺める、眺めつつ、
アーサナやプラーナーヤーマをする」と言った。
「気づき」は、英語で「Aware」で、見る「Watch」とは違う。
「見る=Watch」は、「努力して見る、見ようとする、一点に集中して見る」こと。
努力して見るということは、そこにエゴがあって、結局自分の中に戦いを生む結果となる。
この、「気づき」という考え方は、ヴェーダーンタ哲学にはない。

ヴェーダーンタは人間の本質は純粋意識=ブラフマンで、それ以外はマーヤーだと説く。
その哲学はとても理論的で理解しやすいのだけれど、
「みんなマーヤ、つまり幻想だとしたら、今見てるこの世界は何?」と、随分考えこんでしまった。
悟るとマーヤーが消え、みんななくなってしまうのか?
それとも、錯覚が消えありのままが見えるとしたら、それってどんなことだろう?
「わたしは体ではない、心でもない、思考でもない・・・」と延々と否定していく、ヴェーダーンタ。
否定し続けていくと、すべてがモノトーンの世界になっていくみたい。
そして、とてもストイックな気分になっていく。

リシケシから帰って、抱一先生のヨーガ塾に行くようになった。
先生の所で、タントラの思想と出合った。
体を使うハタ・ヨーガの背景はタントラ思想と、なんとなく知ってはいたが、内容は何もわかっていなかった。
タントラの中心は、「意識のシヴァ」と「エネルギーのシャクティ」で、
特にシャクティを女性神として礼拝し、重要視する。
シャクティのエネルギーなくては何も起こらないし、何もない、のだ。
そして、シヴァとシャクティは切り離せない。
シャクティの象徴として美しい女神や、神を表す幾何学図形=ヤントラを礼拝する。

リシケシではヴェーダーンタばかり考えていたので、初めはタントラに頭が混乱したけれど、
子供の頃から美術や音楽が好きな私は、その華麗な世界に馴染みやすかった。
ヨーガ塾の帰り、電車から見る空の美しさに、「これはシャクティの力なのかな?」とか、
アーサナの時体を流れる感覚を、「このエネルギーがシャクティ?」とか、
度々意識してみた。
でもそれは、「シャクティ」と名前をつけてみてるだけで、
まだまだ、「美しい空」や「身体内のエネルギー」だった。
シャクティを体験したのは、最近のこと。それはまた、後で書くことにします。

ヨーガ塾では、「気づき」にも出合った。
体があってこそ、気づける。
心があってこそ、気づける。
感覚があってこそ、気づける。
思考があってこそ、気づける。
見えないものである純粋意識シャヴァを知るため、シャクティはあらゆることを私たちに見せてくれる。
素晴らしい歓喜も、とても悲惨なことも、シャクティの慈悲。
シャクティがくれるあらゆる体験を通して、気づきを発展させることが、シヴァを知ること。
「私は誰か」に辿りつく道。

タントラの世界へ~シヴァとシャクティ_b0237103_0172639.jpg
   ハリドワールのガンガーアラティ 河は女神としてあがめ、歌われる
          
by haru-ha-akebono | 2011-12-05 00:35 | わたしは誰か?Who am I?