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はるはあけぼの ヨガDiary

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カテゴリ:わたしは誰か?Who am I?( 87 )

移ろうものはわたしではない

小さな出来事がきっかけで、気持ちはネガティブに支配されていきました。
短くはない、異国の生活の中で。
最初は、ネガティブになったきっかけの対象(対人関係)の相手のせいにしていました。
しかし、それでおしまいに出来るには、わたしの知識は多く、矜持もありました。
何年か、心の制御の訓練や信仰を続けてきたのに、
何の成果も現れていないとは!!
それとも、あるところまで浄化されても、簡単に転落するのが心の性質なのか?
どちらかはわかりません。
しかし、心の弱さ脆さを実感せずにはいられませんでした。

これは、心=自分だと勘違いしているからです。
何年か前に、
「わたしたちの本性はアートマン、身体や心は本当の自分ではありません」
というレクチャーをした自分がこの状態・・・。
“情けない” と思いました。
でも、心が闇に支配されているのは事実。
この闇の大きさと深さに心底ぞっとしました。
唯、今まではこんなに強く、心のいい加減さを認識したことがなかったのです。
もしかしたら、これは少しの進歩なのだろうか? 自問しました。
以前、<瞑想を始めると自分の心の汚さがよくわかる>
という話を見聞したことを、思い出しました。

ここから脱出しなくては、なんのために瞑想や信仰を続けてきたのかわかりません。
その時間を無駄にしたくないし、
おぞましさや辛さから逃れたいと思いました。
放っておけば、問題は違う形でまた自分を苦しめるにちがいない、
そう真剣に思いました。
過去の出来事を思い出し、自分の心の傾向についても考えました。
問題の『対象』は、人や物、つまり一時的なもの、移ろうものです。
自分の心も体も変化する不確実なものなのに、
追いかける対象も同じ性質なのでは、問題が起きるに決まっています。
例えば『人』に何かを求めて、得られないから苦しいし、
苦しいから怒りが湧くのです。
自分は、対象に一体なにを求めているのか?
『愛』・・・。
しかも、『変わらぬ』です。
でも、変わるから、辛くなるのです。
ならば、変わらぬ永遠のものを愛そう。
それは、真理であり、たった一つの実在です。
「サット、チット、アーナンダ」
絶対の知識、絶対の存在、絶対の至福。





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by haru-ha-akebono | 2015-04-20 00:42 | わたしは誰か?Who am I?

旅の終わり

いつもインドの旅の終わりは悲しい。
飛行機に乗ると涙が出そうになるし、成田空港に到着すると
そのあまりの静けさ・・・否、インドと違うだけなんだけど、寂しくなる。

でも、3月に帰って来た南の国を発つとき、心底ほっとしました。
もう少しいたら、本当の病気になって倒れていただろうと思うと、
これで良かったのだと素直に認められたのです。
機が離陸すると心身が緩んできて、すぐに眠りました。

いつも人目に晒されている気がしていました。
だから、空港に入って誰も知った人がいなくなったら、せいせいしたのです。
昨日、別れを惜しんだ人々のことは、一時忘れました。
2か月という、短いような長いような期間にあったこと、起きたことを
脳が消化・整理するにはまだまだ時間がかかりそうでした。
成田空港に着いた時、「あ~、日本はいいなぁ!!」
とつくづく、実感・体感、回転寿司を食べたのでした。



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by haru-ha-akebono | 2015-04-10 00:29 | わたしは誰か?Who am I?

束の間から永遠へ

先ほど、日本ヴェーダーンタ協会のホームページを見ていると、
左横の今月の予定欄の最後に、「今日の言葉」が出てきました。
スワミ・ヴィヴェーカーナンダの言葉が・・・・。
スワミジの言葉を読むと、いつだって、何処にいたって、
真実はこうだ、と実感するのです。
スワミジの今日の言葉にあった、
『普遍的現象』世界での出来事の、なんと薄っぺらなこと!!
そう思いながらも、うわべのきらびやかさに惑わされて、
おしまいは苦い思いを味わうことになります。
初めの甘露はやがて毒薬のごとく。
でも、その蜻蛉の儚さを感じなければ、
決してどなたも、『アートマン』を顕そうとは思わないでしょう。



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                           女神カーリーの祭壇
by haru-ha-akebono | 2014-09-19 00:36 | わたしは誰か?Who am I?

わたしはサット・チット・アナンダ

4年前の今頃、“シャンティ・ヨガ・クラブ” の秋季リトリートに参加し、
ヴェーダーンタ哲学の基本的なことをお話しさせていただく機会を持ちました。
それを、昨日、シャンティの主宰者であるM・Jから、
「ホームページに載せたい」と、連絡を貰ったのです。
勿論、了解しましたので、今はもう “シャンティ・ヨガ・クラブ” のホームページに載っています。
連絡を貰ってすぐ、自分のパソコンのファイルに残っている
その資料を出して読み返しました。
基本は大事です。
ヴェーダーンタ哲学は理論的で解かりやすいです。
しかし、具体的な実践はありませんので、
罠に陥りやすいところもあります。
実践を中心とするタントラとは対照的です。

話しが飛躍しますが、今は頭の中が熱くなっている人が多いのではないでしょうか?
このリトリートの一年後、腕を骨折してリハビリに通っている時、
大事な治療の一つに患部を冷やすということがありました。
治療院の先生は、頭の中は体温より温度が高いので、
発熱がなくても時々冷やしたほうがいいと、治療をしながら教えて下さったことがあります。
頭の中が熱いとは、いつも興奮状態であるということです。
これは、体を使う頻度より頭を使う頻度が勝っているからでしょう。
今回、シャンティのホームページに載ったわたしのレクチャーでは、
ヴェーダーンタを理解するために、体を使うことを話しています。
「ヨーガ・アーサナなんて、健康のための体操よ」
と豪語した方が、周りにいます。
しかし、そうではありません。
ヴェーダーンタの重要なポイント、「目撃者=サークシン」を育てるため
(本当は育てなくても、目撃者が真の自分なのだけれど)、
または意識化するために、アーサナやプラーナーヤーマを使います。
では、「目撃者」を意識化するのは、誰なのか?
「認識する知性」で、これをこそ育てるのが、ハタ・ヨーガの大きな目的なのです。
アーサナやプラーナ―ヤーマを行う、その過程で、健康や美容に出逢いますが、
それは「おまけ」、であって真の目的ではなかったのです。

さて、「目撃者」と頭の熱とどう関係があるの?と思われるでしょう。
わたしも、それを書くことを忘れかけてました。
いつも、「目撃者」がいて、主体になったり
時折少しだけ脇に寄せられていたりしてる状態だと、
頭の中のヒートアップが少なくなるのです。
だって、かっ!!と燃えるような激情や怒り、を少し離れて眺めることが出来たら、
そのものにならずにいられるのですよ。
そうしたら、頭が熱で充満することはかなり減るか、そういうことはなくなるはずです。

「目撃者」であることを実感するための訓練をすることが、
『ヨーガ』と名の付くものすべての大事なことなのです。
感情や感覚に同化した時、ロクなことは起こりません。
その時、「自分」は「他人」から見て、「変人」です。
なぜなら、その時、つながるべき者との関係が一時的に断たれているからです。
源から、離れてしまっているからです。
つながりましょう。
「目撃者」は、「アートマン」です。
その源は、「ブラフマン」です。


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by haru-ha-akebono | 2014-09-08 00:53 | わたしは誰か?Who am I?

この肉体がわたしでしょうか?

地域の活動で高齢者の方々とかかわりを持ち、思うことが沢山ありました。
臨床美術を通して、高齢者の方たちとは長くかかわっているのですが、
地域では、「美術」というツールなしに、個人個人の日常生活のお手伝いをしたのです。
過去形になっているのは、単なるヘルプは自分には向いていないらしいと自覚、
一年を機に辞めようとしているからです。

デイケアなどの通所サービスに通っている方は、体力が落ちたり、身体の介助が必要であったりします。
そうではなく、元気で一人で概ね何でも出来、そして独居の方たちは、
かかわってみて、内面は孤独だったり孤立していたりしていると感じました。
(そういった立場の高齢者さん全員がそうだと言ってるのではありません。)
経済的には困っていないのに、介助は必要ないくらい自立しているのに・・・。
お宅へ生活援助(家事)をしに伺う者に、その方々は、過剰に感情を向けてしまうのです。
いつも一人でいると、住居に手伝いに来る人を、まるで家族のように感じるのでしょうか?

私自身は高齢と言うほどの年齢ではないですが、
後どのくらい生きられるのか?と考える年ではあります。
でも、ヴェーダーンタを学んできて、人は真の生きる意味を追求せずに老いると、
多かれ少なかれ、後悔や寂しさを感じるのではないかと思うようになりました。
人は、いつまでも感覚の欲求を満足させることで時間を潰しては生きていけないのです。
働き盛りの頃の栄誉や繁栄は、老いの前にはなんの役にも立ちません。
まして、肉体の死の前や後には。
そのことに気づかず、死の迫る寂しさの救いを外の世界や他者に求めても、
益々寂しさが募り、傷つくだけでしょう。

一体自分は誰か? 
死した後はもう生まれてくることはないのか?
果たしてこの肉体が、本当の自分なのか?

生きるとはこれらを解明していくことで、そのために転生を繰り返していくのです。


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by haru-ha-akebono | 2014-08-01 00:37 | わたしは誰か?Who am I?

記憶の中のアルナーチャラへの旅

今年のドゥルガー・プージャの時に
会場に来た人は貰える、「Anjyli」という雑誌のために、旅行記を書きました。
テーマは何でもよかったのですが、
昨年はスワミ・ヴィヴェーカーナンダ生誕150周年記念のために
三昔ほど前にヴィヴェーカーナンダロックに行った時のことを書いたため、
今回も旅のことを書くことにしました。

2012年の年末に、シュリー・ラマナ・マハルシのアシュラムがある
ティルヴァンナーマライへ行った時のことをテーマに決めたのは、
締め切りを大分過ぎてからでした。
いつも、旅と言うよりは滞在になってしまうインド訪問なので、
ラマナ・アシュラムまたアルナーチャラ訪問は起伏にとんでいて、
書いていて楽しい時間となりました。

まず、原稿を書いて欲しいと言ったMさんという在日インド女性と以前話をしていて、
彼女がアルナーチャラを知らないと知って驚いたことが、
この旅をテーマに選んだきっかけでした。
インドは広いのだ・・・・。
ベンガル州の人は、シュリー・ラーマクリシュナを知らない人はいない。
でも、ティルヴァンナーマライにしかラマナ・アシュラムはないから、
そこから離れた地域に知らない人がいてもおかしくない・・・。
そう考え、Mさんにラマナ・アシュラムのことを知って欲しいという気持ちがありました。

旅行記はもう一度旅をすることであり、
また自分の記憶の中で加工されていくことでもあります。
脚色、とはちがうのですが・・・。
意識の中で焦点があたった箇所が、色が濃くなっていたり、
きれいになっていたりするのです。
そして、ラマナ・マハルシについてあらためて理解が出来たことは嬉しいことでした。

この旅から帰って、
シュリー・ラーマクリシュナの許に向かったのは、
アルナーチャラの恩寵だったのでしょうか。

Mさんからの依頼=宿題が無事済んで、ほっとしています。



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by haru-ha-akebono | 2014-07-20 23:22 | わたしは誰か?Who am I?

わたしはこの体や心ではない~わたしは無限の魂

日曜日、午前中はヨーガクラスをしたので、
午後から逗子のヴェーダーンタ協会に行きました。
第3日曜は定例会で、ヨーガ教室はしないことにしていますが、
月末にリトリートがあるため、予定を変更したのです。
昼の電車で逗子へ向かうと、到着は丁度午後の講話が始まる頃です。
ただ、午後からですと、
行くまでにかかった時間と同じくらいの長さの時間で講話は終了、夕方のお茶になります。
それでも、足が向きます。
以前なら、こんな場合は行かなかったでしょう。

初めて協会長のスワミ・ジのお話しを伺ったのは、5年前のことです。
逗子ではなく、最寄り駅の沿線の場所での講演会でした。
ヨーモアのあるヴェーダーンタの講話に、心惹かれました。
その頃、ヴェーダーンタ協会に縁のある方と知り合ったばかりで、
協会や、インドにある本部のミッションについての話しを聞く機会が沢山あったのですが、
なかなか逗子は遠くて、一年に1回行く程度でした。
東京で行われる「バガヴァッド・ギーター」の会には、時々行くようになりましたが。

何事も、必要な時間があるのだと知りました。
無意識のうちに出逢っていた、スワミ・ヴィヴェーカーナンダ。
その時から、ここに来ることになっていたのでしょうか?



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by haru-ha-akebono | 2013-07-25 00:22 | わたしは誰か?Who am I?

ヨーガとは?自分は誰かを知ること

ヨーガが身体のシェイプアップや単なる健康法の一つだと、
広く伝播されるようになってから、だいぶ経つ。
ヨーガとは何かを正しく知らないまま、ヨーガをしている人が増えている風潮。
美容や健康が目的だから、
生活状況が不安定になると、ヨーガをやめるとか休むとか、する人がいる。
それって反対じゃない?
生活が困窮したり、壁にぶち当たった時、
どうしたらいいのか?
自分とはそもそも何者か?
それを考え、自分と向き合うことがヨーガだ。

ヨーガとは、生き方を問うこと・・・・。
なぜ自分は、今ここにいるのか?とか
死ぬことが決まっているのに、なぜ生まれて来るのか?とか
そういうことの回答が、みんなヨーガの中にはある。

ヨーガの練習や学習の場を離れても、ヨーガは続く。
むしろ、場を離れて日常生活でヨーガを実践するために、
教室やリトリートに行くのだ。
現実逃避のためにリトリートが気晴らしの場になると、
いつまでも日常での実践が難しくなる。
そんなことがないように・・・。
ヨーガとは、自分は誰かを知ることが目的。

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by haru-ha-akebono | 2013-06-18 00:55 | わたしは誰か?Who am I?

導くもの

アルナーチャラの旅の最中に、
「あなたにはサット・グルがいないのね」
とツアーの参加者の一人に言われました。
わたしのブログを読んで、様々な聖者について書いているわたしを
フラフラ心が混乱した人間だと思ったそうです。
ラマナ・マハルシのツアーに参加しながら、
あっちのグループ、こっちのサットサンガ、
と参加しているのはよろしくない、そんなことも言われました。
しかし、わたしは、本を何冊か読んだくらいで、
「この人はわたしのサット・グルです」などとはどうしても思えませんでした。
どんなに教えが素晴らしくても、もうこの世に肉体がない人を、
2~3冊本を読んで知ったからと言って、
グルなどと思えなかったし、言いたくありませんでした。
何より、相手に(聖者に)対して失礼だと思ったのです。

何度も訪問したリシケシでは、
グルを持つことは本当に霊性の修行をして悟る気持ちがあることの証です。
グルはもちろん悟った人で、その人の言うことは絶対なのです。
結婚するよりももっと強い絆が生まれると、或る方から聞きました。
同じ人をグルに持つ人同士はグルバイと言って、霊的兄弟姉妹となります。
こちらも、血縁のつながりよりも絆は強いのです。
それを聞いた時、また実際にグルに仕える人たちを見たり、
そのダルシャン(グルに、霊的な修行をする上での様々な障害について質問をすること)
の場に伺ったりして、
サット・グルを持つということは、もう退き返せない修行に入ることなのだと実感しました。
こちらが生半な覚悟では、サット・グルにはなってもらえませんし、
サット・グルを見つけることも容易なことではありません。

聖地に行っても、
空き時間のほとんどを、感覚の欲求を満たすお買い物に費やしている
(そのこと自体は悪いことではありません)俗人には、
まだグルは必要ないのではないかしら・・・。
多分、ラマナ・マハルシが今肉体を持ってこの世にいたら、
「あなた方はまだグルを持つ霊的レベルではありません」
と、この時言ったに違いありません。
グルとは、ヨーガの指導をしてくれる先生とは違うのです。
また、肉体がないグルは何も言いませんから、時に好都合でもあります。

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さて、わたしはにフラフラしていたわけではありません。
きちんと霊的なヨーガのことを実践し学べる場を探していました。
ただ慎重で、何処に行っても懐疑的でした。
自分の通っているヨーガ教室の先生が勧めるからとか、
いいと思ったらワーッと感情的になだれ込むとか、
そういうことはしたくありませんでした。
いつも一歩退いて冷静に眺める気持ちで、あちこちの集まりに参加していました。
自分の内なる声を大事に、妥協はしたくなかったのです。
聖者は、皆素晴らしいでしょうけれど、
人間は朱に交われば赤くなる、グループのありようは大事だと思ったのです。
観点のポイントは、わたしの場合
まとめる立場の人が、参加している人たちを愛憎で支配しないことです。
多くの集まりは、この問題が起きていると感じました。

アルナーチャラに行ったのは、
ラマナ・アシュラムがどんな所か見てみたかっただけなのですが、
旅の途中で冒頭のようなことを言われ、精神的に負担になっていました。
帰国してから、或る時自分の気持ちを偽ってブログを書いていることに気が付きました。
正直になれず、無理をしていたのです。
同時に、「もうラマナ・アシュラムには行くことはないだろう」と思っていました。

その直後、
ヴェーダンタ協会で2月に行われたスワミ・ヴィヴェーカーナンダ生誕祭の時、
自分の気持ちが偽りなく、急速にこの場に引き寄せられ始めていることに気が付いたのです。
場と言うのは正確ではありません、その場にある霊の力に、です。
また、それまで、自分はマハーラージ(協会長のスワミ・メーダサーナンダ・ジ)の講話を
とても表面的に受け止めていたことや、この世界のはかり知れない奥深さを実感し始めたのです。
そう直感する具体的な出来事があった、と言うのではありません。
自分の意図ではなく、まさに起こったのです。
それは、無理も緊張もなく、緩やかな自然な出来事でした。

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 今年2月のスワミ・ヴィヴェーカーナンダ生誕祭
  
by haru-ha-akebono | 2013-05-30 22:26 | わたしは誰か?Who am I?

グル その2

スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、
『あなた自身の崇高な自己のみを礼拝せよ。』
という言葉を残しました。
そして、
自分が神々の中の至高の神であると知るまでは、
どんな自由(つまり解放)もやって来ないだろう、と続きます。

スワミ・ジは、自分を信じない人は神を信じることは出来ないと言うのです。
自己とは、神でありグルでもあります。
グルは外側にいるのではなく、自分の真の姿、自分を導くものなのです。



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by haru-ha-akebono | 2013-05-29 23:35 | わたしは誰か?Who am I?