はるはあけぼの ヨガDiary

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水曜日はクリシュナの日 シュリ・クリシュナ・ゴービンダ

キールタンとは、インド版の賛美歌。
神様の名前を繰り返して歌い、神への愛や繁栄を願うのです。
ハルモニュウムと言う名の、アコーディオンとオルガンを合体させたような鍵盤楽器や、
ドーラクと言う横長の太鼓を演奏しながら歌います。
歌い方は、リードする人一人が一節を歌い、同じ所をもう一度、他の参加者が歌います。
歌う人によって、微妙にメロディやリズムが違っていて良いので、同じ歌詞でも、違うメロディという
ことは度々あります。

リシケシのシヴァナンダ・アシュラムでは、毎日夕方、グルディブ・シヴァナンダ・ジの住まいだった
≪グルディブ・クティール≫で、キールタンを歌う会がおこなわれます。
時間は、約40分ほど。
アシュラムに滞在する人も、していない人も、インド人も外国人も、自由に参加出来ます。
この場を仕切るスワミ・ジの指名した人が、自分の歌いたいキールタンを歌い、
その場にいる人たちは、リードの人が一節歌うと、同じ歌詞を続いて歌います。
クティールに入る時に配られる「キールタン・ブック」を見て、少しくらい調子が合わなくても、歌う。

「心をこめて、神様への信愛をこめて歌うことが大切」と、グルディブは言いました。
キールタンを歌うことは≪バクティ・ヨーガ 神様への信愛のヨーガ≫とされ、
歌う者の心や魂は浄化されるのです。

今日、水曜はシュリ・クリシュナの日。
シヴァナンダ・アシュラムは曜日で歌う神様が決まっているのです。 
グルディブ・クティールの一番奥の小さな部屋の祭壇には、いつもシュリ・クリシュナの写真が飾られ
キールタンの会が終わると、全員でそこに御参りをします。


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by haru-ha-akebono | 2011-11-30 01:10 | キールタン

ヨーガ的幸福 ~わたしは誰か? Sat,Cit,Ananda 2

「ヨーガ的幸福~わたしは誰か Sat,Cit,Ananda 」に、
「自分の本質を純粋意識であると知るためには、自分の体や心の変化を対象として眺める練習が必要です。」
と書きました。
人の生涯を通して変わらないもの(純粋意識)は、絶えず変化する肉体や心を眺めていながら、
全く影響を受けない。また、肉体や心に起きることを審判もしない。ただ、純粋に観照をしているのです。

昨年の春、リシケシに行ったときに、スワミ・ヴィシュワルーパナンダ・ジから受けたレクチャーのノートに、
こんなことが書いてあります。座ることを例にとって、
 「私は、座っていない。座った体を眺めている者=純粋意識が真実のわたし。これは変化しない。」
スワミジがアーサナのクラスでいつも言う、「You are not doing、あなたは何もしていない」
とは、このことなのです。
いつも眺める者が私=純粋意識であって、体や心など変化し続けるものは眺める対象なのです。

「アーサナやプラーナーヤーマを行う時、体や心を対象として眺める」
これが前回のブログの続きです。
昨年のレクチャーのレジュメから、考えが少し変化してるので、以下はそこから離れて書きます。

アーサナ(ヨーガのポーズ)をする時、皆何を考えているのでしょうか?
アーサナをして良く聞く言葉は、「私は体が硬い」とか、「先生はきれいでポーズが美しい」とか、
「自分にはあんな風に出来ない」とか、自分や他人の体に対する評価です。
自分たちは、なぜアーサナが出来るのか?という話はあまり交わされません。

わたしは以前、ひどい腰痛になったことがあって、アーサナがほとんど出来ないことがありました。
その時に、スワミ・ジに出逢ったので、(そんな体でよくリシケシまで来たね!と言われました。)
「アーサナは起こる。自分がやっているのではない。」という言葉に、説得力を感じました。
≪自分がやる≫、ならば体に故障があっても、どんなことでも出来るはず・・・。
でも、痛いところは動かない。記憶の中では出来ることが、現実には出来ない。

アーサナの実習には、まずアーサナの出来る状態の体が必要です。
それから、心が、「これからこういうアーサナをしよう」と思う。
すると、体を動かす意思が生まれ、体を動かすエネルギーが流れ、アーサナが生ずる、のです。
この流れを、対象として眺める練習をするのです。

私たちの日常生活は、いつも肉体の外に存在する、他人や物事に五感を向けて、それに心が反応して
おこなわれています。
ヨーガのアーサナをする時には、自分の内側で起きる体や心の変化に、目を向けてみましょう。
硬い、違和感がある、心地良い、など様々な肉体の感覚を見つけることが出来るはずです。
何度も続けるうちに、いつも外の世界に向けていた気持ちが静まってくるでしょうし、
肉体を動かすエネルギーや、もっと精妙な世界を感じ取ることが出来るようになるでしょう。
それらに、まず気付くこと、そして眺めること。

ある時の、スワミ・ジのアーサナクラスの始まりのレクチャー(わたしのノート)から。
 「ボディ・マインド・エナジィ・・・肉体・心・エネルギーで、ポーズが起こるだけ。
  純粋意識は(自分の本質)は何もしていない。」
 「アーサナやプラーナーヤーマをして気持ちが良くなるのは自然なこと。
  リラックスするのは体を動かした結果であって、それはヨーガではない。
  何もしないことを練習するのがヨーガだ。」

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リシケシ市街から車で1~2時間の山の中にある、シヴァの寺院
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by haru-ha-akebono | 2011-11-28 18:45 | わたしは誰か?Who am I?

すべての世界が幸福でありますように

「ローカ サマスタ スキノ バヴァントゥ・・・すべての世界が幸福でありますように。」
このマントラを初めて聞いたのは、抱一先生のヨーガ塾シュリチャクラの平日のクラスに初めて行った時。
ヨーガ・アーサナを始める前に、皆で唱えたのです。
ヨーガのクラスの始めと終わりは、シャンティ・マントラしか唱えたことがなかったので、
意外だったし、新鮮な気持ちにもなりました。
反面、すべての世界の幸せを祈るなんて・・・やや抵抗がありました。
意識していないけれど、日常生活は「ネガティブな想念」が、あちこちに溢れている。
こんなにポジティブな言葉があるだろうか・・・!?
いきなりポジティブな世界に入って行けなかったのが、3年前のわたしです。
ネガティブなことのほうが、リアリティがあると思っていたのです。

ローカ・・・世界という意味のサンスクリット語。私たちが暮らしている地球世界はブ・ローカと言います。
      そしてその上方に6つの世界、下方に7つの世界があるというのがヒンドゥーの思想。 
      上方界はブ・ローカより喜びが多くて、至福を求めて修行をする気にはなれない。
      下方界は苦しみが多過ぎて、修行どころではない。
      ブ・ローカの人間界だけが、幸不幸や悲しみ喜びのバランスがとれて、「私は誰か」を追究して
      悟りにいたることが出来る、とされています。

サマスタ・・すべて、全体、という意味。

スキノ・・・・幸福、喜び、という意味。

バヴァントゥ・・・ありますように、という意味。

今は毎日唱えているこの祈りの言葉。
言葉には力がある・・・言葉そのものが力を持っているし、音として発した時に、見えないけれど、形になる。
その言葉の意味を毎回考え想うことで、唱える本人に大きな影響を与えていると思う。
そして、その想いは相手に届くことでしょう。
14のローカすべてが、幸せでありますように・・・・。

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リシケシ トリヴィニ・ガートのアラティ・・・夕方、ガンジス河の前で火の儀式をして祈る人たち。






      
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by haru-ha-akebono | 2011-11-28 01:14 | 祈りの言葉

ヨーガ的幸福~わたしは誰か?Sat Cit Ananda

★私たち人間の願いは何でしょうか?
 それはいつも幸せでありたいという願い。その幸せが永遠に続いて欲しいという願いではないでしょうか。こ 
 の幸せは、自分の外側にある対象を求めて、それを得た時に感じるものと、同じでしょうか?
 何かを求めて、その対象物が得られなかったら、私たちは悲しくなったり、惨めになったり、苦しくなった  
 り・・・しませんか?
 反対にそれを得ることが出来たら、喜んだり、楽しくなったりします。
 それは、その対象が私たちの感覚(五感)を刺激して、私たちに幸せを与えてくれると思っているからです。

★ヴェーダーンタ哲学では、人間の本質は体や心ではなく、純粋意識=アートマン (究極的にはブラフマン)
 であると言っています。 
 この純粋意識は既に、永遠の至福に満ちた存在・・・Sat・ Cit・Anandaなのです。
 例えば  
 「今、ヨーガのアーサナをおこなっているのは私だ」
 と思う時、アーサナをしている肉体は自分のもの、肉体=自分と考えています。
 また、病気や怪我で苦しい時に、他のことが何も考えられず、苦しさに没頭(巻き込まれて)してしまう。
 その時も、肉体と自分を同一視しているわけです。
 
 心を例に挙げましょう。、他者に投げかけられた言葉で、傷ついたとします。
 「相手が自分を傷つけた」
 と思って嘆いたり、落ち込んだりする時、心と自分の同一視をしているのです。
 反対にとても嬉しいことがあって、我を忘れて喜んでいる時も、喜ぶ心が自分になっているのです。
 
 本来純粋意識である自分自身を、体や心だと錯覚しているため、悲しみや惨めさや苦しみが生まれます。
 また同様に喜びや楽しさという感情が生まれ、これが継続されないために、また悲しみや惨めさが生まれ 
 る・・・。これを繰り返して、私たちは一生を終えてしまうのです。
 それで、真に幸せな人生と言えるでしょうか?
 幸せと思ったのは束の間の、「何か」だったのです。

★自分自身の本質(純粋意識)と、体や心を同一視していることを、ヴェーダーンタ哲学では、
 エゴ(私意識)と言います。
 体・心・思考・感覚は、純粋意識にとっては眺める対象物です。
 この、純粋意識とは、人間の生涯を通して変わらないもの=真実です。
 体や心は、絶え間なく変化し続けている=偽り、束の間のものです。
 純粋意識は生涯変わらず、唯、体や心が行っていること=変化を眺め続けています。
 その純粋意識が、自分自身の本質であることに気付くためには、自分の体や心の変化を対象として
 眺める練習が必要です。
 また、いつも何が真実で何が偽りかを考えることで、識別する力が生まれます。

★ヨーガの実習を行い続けていくことで、体や心を眺める目撃者としての意識や識別力を
 発展させることが出来ます。
 その実習を行い、自分が純粋意識であると確信する体験をした時に、私たちは「永遠の至福」
 そのものを感じます。


ここまで書いたことは、昨年の秋、知人が主宰するヨガ教室の合宿で、私がレクチャーをさせてもらった時のレジュメを、少し直したものです。続きがありますが、それは次回に。


人間は、すでに・・・完全な存在=Sat、完全に純粋な意識=Cit、絶対の至福=Ananda、
であるにもかかわらず、体や心が自分であると思っています。
ヴェーダーンタ哲学では、その思い違いを、「マーヤー」(サンスクリット語で、錯覚や幻想という意味)、と言います。私たちが一生懸命生きているこの日常世界は、「錯覚・幻想」だというのです。
ヨーガの修行は、何か特別な者になることではなく、私たちの錯覚・幻想を取り除いていくことなのです。
取り除いて、「ブラフマン」を顕すことなのです。

グルディブ・シヴァナンダさんの珠玉の言葉という題の小さな本には、
 「あなたはその滅びる体ではなく、すべてに浸透している不滅の純粋な意識だ」
と書いてあります。
 「あなたはそれである・・・Tat Tvam Asi」

 
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by haru-ha-akebono | 2011-11-24 18:35 | わたしは誰か?Who am I?

ヨーガ・スートラを学ぶ会

「ヨーガ・スートラを学ぶ会」に参加するために、抱一先生のヨーガ塾を訪れたのは、
リシケシから帰って5日目のことだった。
「なんて清らかな空気が流れているんだろう!」
ヨーガ塾の室内に入って、最初にそう感じた。
時間になると、先生はお香に点火して、祭壇を清めるアラティを始める。
祭壇の中央には、「ヨーガ・スートラ」を編纂したというパタンジャリの像の写真が置かれ、
その周囲は花で飾られている。
まず、皆でシャンティ・マントラを唱える・・・神聖な時間と空間が広がっていく。
日本語で学べる「ヨーガ・スートラ」と言えば、あの難解な日本語の「ヨーガ根本教典」。
私にとって、抱一先生のこの授業は貴重な時間です。

★今週19日の土曜の午後、「ヨーガ・スートラを学ぶ会」があります。詳細は下記をご覧下さい。


ヨーガスートラを学ぶ会 No. 2  (BCCにて)

11月19日(土) 沙羅舎2F こころとからだ塾 開場 2:30p.m. 講座 3:00p.m.~5p.m.
講師 抱一  参加費 2,000円
今回の内容は、
ビハール・スクールの「ヨーガスートラ解説」
ヨーガスートラのサンスクリット語の朗誦
第一章1、2、3節の解説を学びます。
第一節では、ヨーガスートラを学ぶ準備について、
第二節では、心とは何か、心の動きを止めることとは何かについて、
第三節では、心の動きが止まるとき、どのような状態が生じるかについて
ヴィヤーサ、スワミ・サッティヤーナンダ、デシカチャー、スワミ・プラバーヴァナンダ、スワミ・ヴィヴェーカーナンダその他の解説を学びます。
皆さんのご参加をお待ちしています。       抱一


お問い合わせ・申し込み、地図などは“沙羅舎”のホームページ・ヨーガ塾から

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by haru-ha-akebono | 2011-11-16 19:23 | 聖典を学ぶ

サーブ、ラブ、ギブ  Serve,Love,Give

スワミ・ヴィシュワルーパナンダ・ジが、私に言った言葉 「自分は誰かを自分に問いなさい」。
すでに私はわたしなのに、「自分は誰か?」とはなんだろう・・・。
リシケシのシヴァナンダ・アシュラム(ディヴァイン・ライフ・ソサエティ=DLS)には、有名なシヴァナンダさんの言葉がある。
  「サーブ、ラブ、ギブ、ピューりファイ、コンセントレーション、メディテイト、リアライズ」
これは、「他者に奉仕しなさい、愛しなさい、与えなさい、
      そうすれば、あなたは清められ、集中出来、瞑想が起こり、自己が顕われる」という意味。
この最後の「自己を顕す」が、「私は誰か?」の答えなのだ。

リシケシに行くまでは、書物で読む言葉だった、悟りとか解脱。深い瞑想によって起こること。
シヴァナンダ・ジやチダナンダ・ジは勿論、悟った方たちだ。
リシケシでは、悟ったという方にも会った。
ヴィシュワルーパナンダ・ジも、それを目指して毎日修行をしている。
そのスワミジに、「毎日瞑想をしなさい」とも言われた。
なんだか怖くなった。悟り・解脱と言うことが目の前に差し出されたようで。
自分は今までと違う世界に行くの?
悟るのは、それはすごく大変なことで、遠い世界ではあるのだが。
帰国してからも、ずっと違和感があった。なんとも表現できない、気持ち。

ヨーガを始める前、カール・ロジャースの「人間中心療法」という、心理療法の勉強をしていた。
「療法」というが、まずは自分を知ることが最初からずっと続くのだ。
他者を受け容れることがこの療法の中心で、そのためにはまず自分を受け容れるところから始める。
それには終わりはない。その勉強(修行?)の中で、「自分は一体何のかを考えなさい」と先生に言われた。
自分の悩み=問題があり、学習も兼ねて、先生に療法・・・つまりカウンセリングを受けた。
「嫌いな人がいたら、うんと言いたいだけ悪口を言っていい。言いなさい。そして、気が済んだら、悪口を
 言ってる自分はなんなのか?と言うことを考えなさい。」 
私の話が終わって、先生は大体そんなことをおしゃった。
「自分は一体なんなのか?」  それは、心に深く打ち込まれた。

あれから、随分時が経ったのに、わたしは何も分かっていない。何も変わっていない。
何も進歩していない。ヨーガを始めるきっかけとなった、心理療法。
そして、ヨーガを始めて、あちこち不調を抱えていた身体が、ちょっとずつ元気になった。
考え方もそれまでよりは前向きになった気がする。
でも、何かあると外の世界に回答を求めてる。
それでいいの? 自分の中には無限の何かがあるはずだ・・・。まだ自分が知らないことが。
怖いけれど、一歩を踏み出すしかない。
「自分は誰か」を、いつも問い続ける。外に歩いて行こうとする心を引き戻す。
そして、瞑想。  
生活が、変わりつつあった。                 


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                シヴァナンダ・アシュラムのサマディ・シュラインにて

 

 
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by haru-ha-akebono | 2011-11-15 23:50 | わたしは誰か?Who am I?

ハリオーム★はじめまして!! 

ハリオーム はじめまして。

下の写真は、インド・リシケシのシヴァナンダ・アシュラム(ディヴァイン・ライフ・ソサエティ=DLS)を創設した
スワミ・シヴァナンダ・ジと、その弟子で、シヴァナンダ・ジのあとを継いでDLSの総長となったスワミ・チダナンダ・ジの履いていたサンダルです。大きい方がシヴァナンダ・ジ、小さい方がチダナンダ・ジの物。サンダルの前には、お二人の写真が置いてあります。
私が初めて一人でリシケシを訪れた3年前の夏、スワミ・チダナンダ・ジがマハ・サマーディに入られた。その直後、チダナンダ・ジの住居=グル・ニワスが一般に公開されて(総長でしたから公式の場でもあった)、その部屋にこのサンダルが飾られてありました。私の3ヶ月のリシケシ滞在が終わりに近づいた頃のことです。

さて、この時私が滞在していたのはシヴァナンダ・アシュラムではなく、アシュラムから歩くと20分程の所にあるゲストハウスでした。ここは日本人女性のKさんが経営している、ヨーガ・ホールのある小さなホテル。
そこには、スワミ・ヴィシュワルーパナンダ・ジという、気が向いた時にハタ・ヨーガを教えてくれる出家者が住んでいました。スワミジは15歳の時に父親からヨーガを教わって以来、ハタ・ヨーガという身体を使うヨーガを実践して悟りにいたるための修行に、とても熱心な方。

スワミジは、希望する外国人が何人か集まると、アーサナやインド哲学を教えてくれていました。
アーサナをするその身体の柔らかいこと・・・
「スワミジはなぜそんなに身体が柔らかいのですか?」と聞くと、「いつもリラックスしているから。」という答え。
朝は3時間も瞑想をすると言う。
隣の部屋に滞在していた日本人の男性が、「そんなに長い時間座っていて、疲れませんか?」と質問すると、「何もしていないのだから、疲れるわけがない。」と笑って答えた。  
「?何にもしていないって・・・?」
何もしていないって、一体どういうことだろう? 3時間も瞑想をしてるのでしょう?

それから、スワミジはアーサナのクラスの時、「あなた方は何もしていない。」とかならず言うのです。
その言葉は、どこか深いところにふーっと入ってくるのだけれど、頭で考えるとなんだか分からなくなる。
アーサナをしてるのに、何もしていないってどういうこと? YOU ARE NOT DO?

そして、私が帰国する前日のレクチャー(インド哲学の講義で、寺子屋風の集まり)が終わって、スワミジは私に向かってこう言った。
「ゆうこ、24時間いつも自分は誰かを問いかけなさい。それがヨーガの練習(ヨギック・プラクティス)だよ。」
自分は誰か?WHO AM I?
そう問うことがヨーガの練習なの?
「でも、自分は誰か、って以前どこかで聞いたことがあるような・・・・。」
あの、「あなた方は何もしていない」という言葉も何度もよみがえってくる。
そこから、真実のヨーガを求めることが始まった・・・。日本のヨーガ教室に通い始めて15年目のこと。
続く

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by haru-ha-akebono | 2011-11-09 13:00 | ご挨拶