はるはあけぼの ヨガDiary

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「わたし」って?

「わたし」とは、他者との関係で存在しているのではないだろうか?
各々自分にとっての主体は「わたし」には違いないが、もし世界に人間が自分一人しかいなかったら?
「わたし」と言ったり、思ったり、するのだろうか?
そんな必要はもしかしてないかもしれないし、「わたし」という認識は生まれないだろう。

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それから、人の性格というのは他者との間の相対的なもので、相手が変わると変化すると、
昔心理学の本で読んだことがある。
自分の身に振り向けると、確かにそうだ、と思った。
「わたしは・・・」と主張をする時・・・自分の意見なり考えを人に伝える時、
やはり他者との関係があって成り立つ。
それなのに、「わたしは・・・」と、自分の主張をすることに精一杯で、
それを聞いている相手のことは眼中にない、そんな人がいる。
相手の気持ちや個性は無視して、これでもか!これでもか!と、自分の考えることを主張することが大事。
そうとしか思えない人がいる。
それは、「わたし」を述べているのではなく、
唯のエゴ、自己中心だ。幼児性の抜けない、自己中心。

自分がいいと思う物事を、これでもか!!これでもか!!
と、他者に押し付けるのも、「わたし」の押し売りだ。
いくらいいものでも、そうされると興ざめだし、何か魂胆があるのかな?と疑惑を持ってしまう。
それはこちらのエゴだろうけれど、なぜそんなに押し付けなくてはならない自分なのかを、
その人は考えたことがあるのだろうか?
押し付けは、唯の力関係だ。

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「わたし」とは、他者とは切り離せない存在だと思う。
「わたし」の自由を考える時、相手の自由を束縛してはならない。
「わたし」の尊厳を思うとき、他者の尊厳を踏みにじってはならない。
自分の考えや好みを強く押し付けるのは、相手の尊厳を踏みつけにしているのだ。


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by haru-ha-akebono | 2012-01-31 23:48 | わたしは誰か?Who am I?

世界の中で生きる 2

「あるがままに・ラマナ・マハルシの教え」の中に、
ラマナは、「彼の帰依者たちが、瞑想的生活のために世間的な仕事や義務を放棄することを、
一貫して拒んできた」、そうです。
ヨーガを始めてスピリチュアルなことに触れ、急に自分のいるところが色褪せて見えるのか、
出家するわけでもないのに、仕事を辞めてしまう人がいます。
きっと、世間の仕事をしていては、霊性の道に入れないと思うのでしょうね。


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でもラマナは、「身体が行う行為の責任を受け入れて、その行為に従事する個人的な『私』は存在
しないという自覚とともに通常の義務や責任を果たすことの方が、霊的により大きな成果がある」
と、帰依者たちに語ったそうです。
ラマナ・マハルシは、少年と言ってもよい年齢で急にサマーディに入り、
そのまま家を出て、アルナーチャラへ向かいました。
この経歴から、ラマナがカルマ・ヨーガを善しとしてるとは、夢にも思っていない人もいるようです。

私は思う。自分に与えられた仕事は、果たす仕事なのだと。
ヨーガは、世間からドロップ・アウトするためのツールではありません。
「私は誰か?」を問うのは、自分に与えられた仕事の真っ只中で出来るのです。




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ラマナ・マハルシの教えを歌にした「ウパデーシャ・サーラム」を、You Tubeで聴くことが出来ます。
 アルナーチャラに捧げられた歌も素敵です。
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by haru-ha-akebono | 2012-01-31 01:09 | わたしは誰か?Who am I?

世界の中で生きる

リシケシのシヴァナンダ・アシュラムの対岸(ガンジス河をはさんで)には、
グルディブ・シヴァナンダジが、アシュラムを造る以前に厳しい修行をしたという
「タパシャ・クティール」があります。
今はきれいに手入れされた庭もある、小さな建物。
開館時間はごく短くて、朝と夕方の2回、アラティがあります。
ある朝、友人と二人で訪れた時、
ここを守って働いているスワミジが一人で掃除をしていました。
私たちは、「何かお手伝い出来ることはありませんか?」と、
スワミジに聞きました。
すると、スワミジは笑って、グルディブ・シヴァナンダジの像(と言っても、板に写真を貼ったような物)
に掛ける花輪(マーラー)を作るよう、花と糸と針を渡してくれて、作り方を教えてくれました。
スワミジが掃除やアラティの準備をする間、私たち二人は黙々と糸を花に通していました。
きちんと、花の方向が決まっているのです。
茎から花の中心へ何個通したら、真ん中の花は正面を向くように1つ。
また、今度は花びらの方から茎へ向かって、糸を通す。
二つ出来上がり!
アラティは毎日決められた通り、手順通りに行われるのでしょう。
この日は私たち以外は誰も訪問者はなく、それでも淡々と儀式は進んで行きました。
いつの間にか、涙が出ていました。(後で聞くと、友人もだそうです)
誰がいてもいなくても、グルディブシヴァナンダに捧げられる祈り。
それが、このスワミジの仕事。サーブ。奉仕。
グルディブ・シヴァナンダジが最も大事にした「カルマ・ヨーガ」。
立ち去りがたい・・・・。
自分を滅した行為が、こんなに美しいと初めて知りました。
ずっと座っていると、スワミジが言いました。
「ダイニングに行きなさい。もうすぐ昼食の時間だよ。」

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by haru-ha-akebono | 2012-01-31 00:34 | わたしは誰か?Who am I?

シヴァ神への祈り

知人が主宰するヨーガ教室の、新年のサットサンガに参加しました。
少し遅れて到着したので、「笑うヨーガ=ラフター・ヨーガ」が終わっていて、
皆で持ち寄った食事を始めるところでした。
しばし歓談。
主宰者初め、幾人かがとても美しいサリーを着ていて、寒い時節に春の花が咲いたようです。
それから、一人ずつ今年の抱負や挨拶をしました。
やはり昨年の震災の話しが、印象に残りました。
また、ヨーガを始めたおかげで、物事を自分から少し離して見ることが出来るようになった、
物の解釈が変わってきた、と言う方が何人かいて、ヨーガに精進している姿勢はさすが
このグループの方だなと思いました。
そのあと、いくつかのお知らせがあり、みんなで一曲キールタンを歌いました。
最後に、「マハ・ムリィトゥーンジャヤ・マントラ」を54回、唱えました。
東日本大震災のすぐ後、このマントラを108回唱える会を、このグループで行ったのを思い出しました。
まだ、先の見えない生活・苦しみの中にいる方たちが沢山います。
この祈りが届きますように!!


OM トリヤムバカム ヤジャーマヘー スガンディム プシュティ ヴァルダーナム |
OM OM Tryambakam  yajamahe Sugandhim   pushti  vard-dhanam

ウルヴァールカム ィヴァ バンダナン ムリィティヨール ムクシヤ マ アムリタートゥ ||
Urvar-ukam iva     bandhanan  Mrityor     mukshiya ma amritat

オーム 三つの目を持つシヴァ神を 礼拝いたします
あなたは かぐわしい香りを放ち すべての生命を豊かに育くまれます
私たちを死の束縛から解放し 不死の身にしてください 
まさに 瓜が熟し 蔓から切り離されるように!!


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by haru-ha-akebono | 2012-01-29 23:32 | 祈りの言葉

風に吹かれてみませんか?

昨日、三鷹の沙羅舎で「いのちの学校」がありましt。
参加者の中に、ギターを弾く若い男性がいました。
講座の終わりに、その彼の伴奏で、講師の抱一さんが歌を歌いました。
なんとも、優しい歌と、歌詞と、ギターの音色・・・。

講座の終了後に、沙羅舎の1階の心泉茶苑で交流会があって、
その方のギターの演奏と一緒に、みんなで歌いました。
その時、急に「風に吹かれてみませんか」という曲を思い出しました。
それは、私の大好きなロックミュージシャンのCharが、若い時に創って歌っていた曲です。
「何をあわてているのか。朝も早よから・・・」
という歌詞で始まるこの曲は、もう35年位前のもの。
バブルの何年も前に創られた曲です。
今、ここから進歩してる?
35年前から進歩してる?退行していないかな?
そう思ったのです、今日。
そのギター青年のゆったりした歌とギター演奏を聴いていて。

「たまには、川原や浜辺に行って、一人で寝転んで、風に吹かれて、・・・」
考えてみなくてはならない事が沢山あるのではないでしょうか?
その時が来ているのではないでしょうか?


Charのことをもっと知りたい方はこちら


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by haru-ha-akebono | 2012-01-29 01:22 | シャクティの力

ニルヴァーナ・シャットカム

前のブログに書いたバジャン、「解放へ至る6つの段階=ニルヴァーナ・シャットカム」は、
「アディ・シュリ・シャンカラーチャーリャによる、ヴェーダンタの精髄」と言う副題がついています。

 1.私は思考器官ではない、認識知性でもない、エゴ(自我意識)でもなければ、心でもない
   私は、耳(聴覚)ではない、舌(味覚)でもない、鼻(嗅覚)でもなければ、目(視覚)でもない
   私は、虚空ではない、地ではない、火でもないし、風でもない
   私は至福の意識、私は最も吉祥な神シヴァ

このように始まって、ずっと「私は〇〇ではない」、と続きます。
そして、6番目は、

6.私は、変化することなく、形はなく、至高のものである
  私は、いたる所に遍在し、あらゆるものの中に浸透している 
  私は、常に平静で、二元性を超えている 
  私には、無智(真実の自分を知らない)による束縛はなく、それゆえに束縛からの解放もない
  私は至福の意識、私は最も吉祥な神シヴァ

で結ばれています。
以前、シヴァナンダ・アシュラムのシヴァラトリで歌われるのを聞いたことがあります。
1~6番の終わりは必ず、「私は吉祥な神シヴァ」で結ばれているからでしょう。

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私がリシケシで教わってきたチューン(メロディ)とは違いますが、
マントラやキールタンを現代風に歌うことで有名なデーヴァ・プレマールが、
「チダナンダ」という題名で、歌っています。
そちらもとてもきれいなメロディです。

それから、バジャンとは、キールタンと違って一人で歌うもので、ストーリィ性があります。

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by haru-ha-akebono | 2012-01-25 00:07 | わたしは誰か?Who am I?

世界はなんて美しい!!

さっき、「シュリ・サウンダリャ・ラハリ」を読んでいました。
ヴェーダーンタを確立したアディ・シュリ・シャンカラーチャーリャが、
タントラ思想のシャクティを礼拝し著した数々のマントラです。
解説はスワミ・サテャーサンガナンダ・ジ。
意識は不活発な性質で、どんな小さな振動さえも起こすことが出来ない、
シャクティの力なくしては動かない、と書かれています。
この宇宙を創造し、維持し、破壊する、ブラフマ・ヴィシュヌ・シヴァの働きさえも、
シャクティが活動の用意をしなくては起こらないと説かれているのです。
その考えを受け容れるのは、簡単かもしれません。
でも、実感は???
ヨーガ・アーサナをする時に、体を流れるエネルギーを「シャクティ」と思えば思える。
でも、確信は・・・?


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昨年、腕を骨折して、しばらく様々な活動が出来なくなりました。
家にいることが多くなり、その時、一つのバジャンを訳したのです。
「シュリ・シャンカラーチャーリャのニルヴァーナへの6つの段階」、という題名の歌です。
これはヴェーダーンタの思想=不二一元論、「私は〇〇ではない」と歌い、
6節目は自由への解放へ至るというものです。
最後の節の訳に、おおいにこだわりました。
ここでは意識のことを、全てに広がり浸透している、と歌っています。
「全てに」って、まさに全てだけれど。
限定はないはず。
想像すると美しい。
でも、言葉にするのは難しい。

怪我が、日々快復に向かっているのは感じられました。
この治す力もシャクティなんだろうな、と思っていた或る日。
買い物に出て歩いている時、突然、目の前のあらゆるものに浸透しているものが見えたのです。
それは、人間も動物も木も葉も雲も、全てのものの命を動かしている、シャクティの力。
シャンカラーの歌では、「意識」でしたが。

あらゆる動くものの中にきらめいて見える、力・・・。
この世界は、なんて美しいんだろう!!
ゆらゆら、動いている。きらきら、光っている。
それが全てを動かしている。
全ての、源。源泉。いのち。
シャクティは、いつもそこにあったのですが、それまでは見えなかっただけなのです。


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by haru-ha-akebono | 2012-01-24 18:20 | シャクティの力

心って何だろう?

スワミ・サティヤーナンダ・ジの「ヨーガ・ニドラー」の本に、
「心は自動車のようなもの。上手に運転をしないと事故を起こす。」という言葉がある。
昨日、この言葉を思い出したのは、ある人の消息を知ったから。
車(心)が暴走して、事故を起こしたのだ。
予兆はあったけれど、事故の後始末をする羽目になったのだ。

わたしたちは、「心=こころ」と一括りに言うけれど、心がなんだかあまり考えてみないのが普通だろう。
心は体より上級なもので、心が自分だと思っているのが一般的だと思う。
自分がそうだったから。
ヨーガを始めなかったら、一生そう思っていただろう。
そもそも、心ってあるのか?
心は絶え間なく変化する。それを自分の本質だと思い込んでいると、それに引きずり回されて、
一生を虚しく終わってしまうのだ。
絶え間なく変化するものを眺めていられたら、それに翻弄されることはない。
でも、観るる者と観られる者がなくて、「絶え間なく変化する観られる者」が自分と一体化
している時、「相手に傷つけられた」とか、
「あの人があんな言葉を言ったから、今こんな惨めな気持ちになってる」とか、
心の闘い(なんだけれど、他者との闘いと思うのだ)が際限なく始まってしまう。
その心をなんとか平静に戻そうと、相手を言葉や態度やあるいは暴力で、
攻撃を開始するか、または自分に攻撃の矛先を向ける。

こんな図式が見えてくると、こんなことしてなんになる?って思えるけれど、
そこにたどり着くのはなかなか時間がかかった。

ハタ・ヨーガは、まず体の動きを使って、体に起こることを眺める練習をする。
そこから精妙な世界に少しずつ入っていくのだが、その「眺める」行為が発展していくと、
自分の本質はたやすく移ろうものではないことが理解出来るようになっていく。
自動車ではなくて、車の運転者になるのだ。



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by haru-ha-akebono | 2012-01-21 01:24 | シャクティの力

南インドへ

インドに初めて行ったのは、丁度30年前の2月~4月でした。
インドを旅することになったのは、いろんな経緯がありました。
書くと長くなるので省略。
行きたいと思っていた、アフガニスタンやイランが、次々戦争で入国が出来なくなったのです。
その頃、横尾忠則さんの「インドへ」を、職場の友人が貸してくれたのです。
インドへの憧れが急速に膨らみました。
横尾さんが求める精神世界にも、惹かれました。
「インドへ行こう!!」  その思いが固まっていったのです。
着々と準備を始めました。
当時は今と違って、インドに行くことは気持ちの上でも実際も大変なことでした。
情報もあまりないし、インドには国際電話もあまり通じない時代でした。

やがて、一緒に行くことになった友人の友人と、2ヶ月間で回るところを決めました。
読んだ何冊かの旅行記の中に、大好きな詩人の田村隆一氏の「インド酔夢行」があったのです。
「どうしても、この本に書いてある、インド最南端=ケープコモリン=カニャ・クマリに行きたい!!」
それが私の唯一の希望でした。
後はどこか変更があってもいいから、ここだけは絶対に。
ただ、最南端で、3つの海が出会うところ、と言うだけで、その場所に行きたい・・・・。

さて、デリーから少しずつ南下して旅は続きました。
移動はいつも2等寝台列車。
ある場所に着くと、汽車を降りてすぐに、次に乗る汽車の切符を買います。
切符販売窓口に並んで・・・。そうしておけば、出発まで駅に来なくて済みますから。
デリーで買った時刻表だけが頼りです。

横尾さんの本に書かれて憧れていた「精神世界」とは無縁の旅でした。
南インドに来た、と実感できるのは、デカン高原あたりからでした。
その先、ケララ州に入って行くと、汽車はなく、バスでの移動になります。
バスはだいたい夜行。
運転が信じられないくらい乱暴で、良く事故に遭わなかったと思います。

何日も海の家に泊まって海水浴を大分楽しんだあと、やっとケープ・コモリンへ。
!!・・・・何にもない、田舎の町!!
岬のようなものはなく、どうすれば感動のサンライズ&サンセットを見ることが出来るの?
夕方、同行の友と、海で知り合っ男性と3人で、西と思われる方角へ、ひたすら歩きました。
すると、海辺近くに出たのです。
沈む夕陽は見ることは出来なかったけれど、村の女性が井戸に水を汲みに来たり、
子供もいたり、人が沢山いました。
懐かしいような、素朴な風景。
大昔に見たことがあるような、既視感に襲われました。
一体、ここは何処?
今まで見て通り過ぎて来たインドの町や村とは違う・・・。
夢を見てるのかな~。
夕餉の支度にかかる、田舎の村の一枚の風景画。

翌日の朝は曇りで、やはり朝日を見ることが出来ませんでした。
3人で村の中を歩き回りました。特に何も見るものがない、生活するための村。
ブラブラしていると、船の乗り場に出くわしたのです。
船と言ってもフェリーボートです。
乗船時間が迫っているようで、インド人が何人も乗って行くので、私たちも乗ることにしました。
何処に行くのかも知らずに。
デッキで、インド人のおじさんに「ネパール人か?」と聞かれました。
3人とも、顔は日に焼けて真っ黒でしたから。
船はすぐに、小さな島(岩)に到着。
誰かの記念館らしきものが建っているだけです。
中に入ると、何枚も同じ人(インド人)の写真が飾ってありました。
「こんな場所に、こんな記念館が建てられ、こんなに人が来るなんて、とても偉大な人なんだね」
と、3人で話して一回りしました。
インドの人は皆、巡礼旅だったのでしょう。
南インドでは英語を話す人があまりいないので、
私たちは質問もしなかったか、聞いても通じなかったのでしょう。
その人が誰なのか分からないまま、でした。
記念館の奥に飾られた、一枚の写真だけは、今も光のような明るさで記憶に残っています。

それから十年ほど経ってヨーガを始め、しばらくしてその写真の人が
偉大なヨーギ、ヴィヴェーカーナンダだと知りました。
師ラーマクリシュナがマハ・サマーディに入ったあと、インドを巡礼。
カニャ・クマリで海に飛び込み、この岩まで泳ぎ、瞑想をした。
記念館と思っていたのは、その記念に建てられた寺院だったのです。



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by haru-ha-akebono | 2012-01-18 00:48 | シャクティの力

ヨーガスートラって、面白い!!

ヨーガを学ぶ人は必ず一度は読んだことがあるでしょう、「ヨーガ・スートラ」を。
でも、古代インドのヨーギのための修行書で、古い教典と受け止めてる方が多いのでは?
と、これは私の推測ですが。
サンヤマなどと言うハイステージなことは、とても今世では到達できません・・・。
でも、「ヨーガスートラ」は、日常の生活の中で活用できることがちりばめられていると、
ある時気が付きました。
それから俄然、「ヨーガスートラ」が面白くなったのです。
勿論、一人で読んでいたのではなく、ヨーガ塾の「ヨーガスートラを学ぶ会」で、です。
今週土曜の午後、三鷹沙羅舎のヨーガ塾で、「ヨーガスートラを学ぶ会」があります。

ヨーガスートラを学ぶ会 No.4 のお知らせ
日時 2012年1月21日(土) 開場 2:30p.m. 講座 3:00p.m.~5:00p.m.
場所 沙羅舎2F こころとからだ塾
参加費 2,000円  講師 抱一

皆さま新年明けましておめでとうございます。
新年第一回目のヨーガスートラは、第一章6節~11節の解説を予定しております。
その内容は、心が止滅されないときに人間が同一化してしまう5つの心の状態についての解説です。パタンジャリによれば、全ての心の活動は5種類に分類されます。
6節 5種類の心の活動 正しい認識、間違った認識、空想、熟睡、記憶について。
7節 正しい認識とは何かについて。
8節 間違った認識とは何かについて。
9節 空想とは何かについて。
10節 熟睡とは何かについて。
11節 記憶とは何かについて。
皆さまのご参加をお待ちしております。
抱一



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また、今月第4土曜日夕方より、「沙羅舎・いのちの学校」で、抱一先生が講演をされます。
題して、「全てはここから始まる・・・137億年のいのちの巡礼」。

◆1月28日(土)5p.m.~7p.m.に、沙羅舎「いのちの学校」にて抱一が講座を担当します。タイトルは「全てはここから始まる」です。広告を添付しましたので、興味のある方はご覧ください。主宰は沙羅舎ですので、参加申し込みは沙羅舎のほうにお願いいたします。
 講座の内容は、「ここ」という概念を、宇宙史、地球史、生物史および人類の歴史から観た「ここ」と、真言密教の曼荼羅に表現された大日如来を中心にした精神世界的「ここ」と、参加者一人一人の個人史的「ここ」を重ね合わせて、参加者それぞれの人生の新しい出発地点「ここ」を熟慮し、瞑想し、発見したいと願っています。  
抱一


どちらも、詳細・お問い合わせ・お申し込みなどは、
 http://www.sarasya.com/
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by haru-ha-akebono | 2012-01-17 00:41 | 聖典を学ぶ