はるはあけぼの ヨガDiary

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無私は神様 

 世界はあなたや私の助けなど待っていません。
 それでもわれわれは、働いて絶えず善を行わなければならないのです。
 それがわれわれ自身へのお恵みなのですから。
 それが、われわれが完全になるための唯一の道なのです。
 われわれが助けた乞食で、たとえ1セントでもわれわれに借りのある者は一人もおりません。
 一切のことについて、われわれの方が彼に負うところがあるのです。
 なぜなら彼がわれわれに、彼に向かって慈善を行うことを許したのですから。
 自分は世界に向かって慈善を行った、とか、行うことができる、とか思うのは、
 または自分はこれこれの人々を助けた、などと思うのは、完全な間違いです。
 それは愚かな考えであり、すべての愚かな考えは不幸をもたらします。
                                  スワミ・ヴィヴェーカーナンダ「カルマ・ヨーガ」より



今日、日本ヴェーダーンタ協会の逗子例会に、横浜寿町でホームレスの支援を行っている、
近藤昇さんがみえ、支援活動について話をされました。
2年前から、協会は「ナラ・ナーラーヤナ活動」というホームレス支援活動を始めました。
近藤さんが行っている、寿町の公園でのホームレスへの給食支援活動「炊き出しの会」へ
人的+物資の協力をする活動です。

近藤さんの話の前に、協会のスワミ・メダサーナンダ・ジから、
協会が行っている「ナラ・ナーラーヤナ活動」は、赤十字やライオンズクラブなどが行っている
社会的奉仕とは違うという話がありました。
協会の奉仕は、神様のお世話をする霊的奉仕だということです。
霊的奉仕には二つあって、一つは寺院に祭壇を造り神様をお祭りして、花や供物を捧げ祈る行為。
もう一つは、社会的弱者を神様と見てお世話をするものです。
ホームレスであれば、お香や花はいらない代わりに、食事や衣類を与える(お供えする)ことが、
神様のお世話になり、私たちの霊的実践、心の浄化になるのだそうです。
この霊的実践は非利己的行為で、スワミ・ヴィヴェーカーナンダはそれを「無私は神様」と言ったそうです。


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さて、近藤さんが行っている仕事は、大きく分けて二つです。
一つは、24年前に寿町に来た時から始めた、
日雇い労働者組合の活動。
日雇い労働とは、日々雇用されて日々解雇される職業です。
建築現場の初期的労働力(現場の基礎造りなど)です。
住まいは主に寿町にある、ドヤと呼ばれる簡易宿泊施設です。
その人たちの賃金不払いや不利な労働などの、
雇用を守る支援をする仕事です。
しかし、1990年代のバブル崩壊後、日雇い雇用はほとんどなくなり、
路上生活者つまりホームレスが急速に増えたのだそうです。
そして、近藤さんのもう一つの活動である「炊き出しの会」は、
1993年に寿町の老人クラブ「くぬぎの会」が
増えるホームレスを見かねて
炊き出し給食をしようと始めたものが発展したものだそうです。
給食は毎週金曜日の1回です。
週1回なのは、就労意欲を持っていて欲しいから、
依存を防ぐ意味でだそうです。
先週の給食は650食、今週はおそらく700食を超えるだろうと話していました。
ただし、食事は一人1食ではなく、何回並んでもいいのです。

このあと、恐ろしい話しが二つありました。
まず、バブル崩壊後ほとんどなかった仕事が、昨年の3.11以降急に増えたそうです。
それは、福島の原発の事故処理に関わる仕事です。
大手ゼネコンが斡旋に来ると、命に係わる仕事とわかっていても、
お金が入るならと行く人が多いのだそうです。
放射能は7ミリシーベルト以上浴びると、100%死ぬそうです。
福島には10ミリシーベルト前後ある場所の仕事があり、係累の薄いホームレスは仕事に行くのだそうです。
路上生活よりはいい、死ぬといっても今すぐではないから、という理由で。
日当7万円になる危険地帯の仕事もあり、これは確実に被爆するそうです。

そして、もう一つの恐ろしいことは、子供たちによるホームレスの襲撃です。
路上生活者は「怠け者」と、近藤さんたちの炊き出しの活動が「怠け者支援」と言われることもあるそうです。
でも、近藤さんはこう話されました。
バブル崩壊(リーマンショックもありましたね)後、今まで一生懸命会社のために
家族のために働いてきた。
それが、或る日リストラとして解雇されてしまう。
新たな仕事が見つからず、所持金が尽きたらホームレスになるしかないのです。
家のローンがあればそれは手放さざるを得ないわけです。
日雇い雇用があったら、ドヤと呼ばれる簡易宿泊所に泊まれるのですが、
雇用がない今は路上生活者は増える一方です。
誰も好んで路上で生活しているのではありません。
それを、行政は「公園を占拠している」と立ち退かせ、「怠け者」と呼ぶのです。
そのようなホームレスへの対応を見ている子供たちが、
公園で寝ているホームレスに石を投げる、暴行を加えるなどの襲撃をするという話を
近藤さんの口から聞いた時、とても恐ろしく悲しくなりました。
最近も、暴行を加えて殺してしまったホームレスを公園のゴミ箱に捨て、
「ゴミを排除してやった。いいことをしたのだ。」と、加害者の子供たちが言った事件があったそうです。

「炊き出しのない日が来るように」と、「でも自分ももう若くないから、活動をしなくていい日が来るまで
これがつながっていくように」、と締めくくられました。

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このホームレスの現状を沢山の人たちに知って欲しいので、
1回でもいいから活動に参加して欲しい、沢山の場で話をしているとのことです。
人間の生きる基本は、≪仕事・食事・住居≫であるけれど、これが充たされない状況でありながら、
それをあきらかにしようとしない社会であるという現状。
現在、ホームレスの数は全国で万単位だそうです。
今日の話しを伺って、いつ誰がホームレスになってもおかしくない社会であると感じました。

協会のナラ・ナーラーヤナ活動について知りたい方はこちらから


 われわれは誰かを助けたと思うから、その人が自分に感謝することを期待します。
 そして彼が感謝しないというので、不幸になるのです。
 なぜ、自分がすることに対して、お返しに何かを期待しなければならないのですか。
 あなたが助ける相手に感謝をし、彼を神と思いなさい。
 われわれの仲間を助けることによって神を礼拝することを許されるのは、大きな特典ではありませんか。
 もし、われわれがほんとうに無執着であったなら、空しい期待という、
 すべてのこの苦痛を逃れ、この世で快活に、善い働きをすることができるでしょう。
 執着なしに行われた仕事を通じては決して、不快や不幸はやって来ません。
 世界は永遠に、それの幸福および不幸を抱えて行きつづけるでしょう。
                             スワミ・ヴィヴェーカーナンダ「カルマ・ヨーガ」より

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by haru-ha-akebono | 2012-05-21 00:21 | 炊き出しの会のこと

わたしは不滅の意識~Consciouse Inmmortality



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ラマナ・マハルシの本を初めて読んだのは、一昨年の秋でした。
その初夏から日本に招いたスワミ・ヴィシュワルーパナンダ・ジが帰国前に、
インドに帰ったらラマナ・マハルシのアシュラムに修行に行くと言ったのです。
ラマナ・マハルシの名前や経歴は知っていましたが、本を読んだことはなく、
スワミジが帰国してすぐに買い求めました。
「自分は誰か?」をたえず問うことで、自分の源泉に戻れるというラマナの教えは、
インド哲学の主流である「不二一元論=アドヴァイタ・ヴェーダーンタ」とは少し違います。
「自分は体ではない、心ではない、思考ではない・・・、私はブラフマンだ」
と説くヴェーダーンタ。
ラマナ・マハルシの説く教えは「非二元論」と言い、
自分は誰かを問うことで、自分はすでに真我として「ある」という、シンプルなものです。

最初に求めた本は「不滅の意識」で、読み終えるのにだいぶ長いことかかりました。
集中していないと、何が書かれているかすぐにわからなくなってしまったからです。

    それ自体としては、われわれが「心」と呼ぶことのできる実体は存在しない。
    想念が生ずるがゆえに、われわれはそれから想念が生じてきた何ものかがあると想定し、
    そしてそれを心と名づける。それが何であるかを知ろうとわれわれが探るとき、
    そこには何もないことを発見する。

                                       ラマナ・マハルシ「不滅の意識」より
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by haru-ha-akebono | 2012-05-20 00:17 | わたしは誰か?Who am I?

ひねもす語りの会へ

「ひねもす語りの会~松橋登 ・原啓一」の初日でした。
開演30分前頃、ひねもすのたりへ行く道を急いでいると、
お店の近くに黒いベストにズボン、白いシャツの男性が二人立っているのが見えました。
「なんか、店の呼び込み?そんな店が近くにあったっけ?」と思ったのです。
(失礼しました。)
あっ!!そのお二人が、松橋登さんと原啓一さんでした。
臆することなく松橋さんに近づいて、「こんにちは!!」と挨拶しました。
あーっ!!素敵!!
やっぱり素敵なままです。
松橋さんデビューの頃、惹かれたのはその比類のない美しさだけではなかったことが、
この時にわかりました。

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今夜は満員御礼だそうです。
老若男女、で店内はすぐに一杯になりました。
初めに、松橋さんの挨拶がありました。
少し緊張しているようにも見えました。
原啓一さんに朗読を教えることになったことを簡単に話されていました。
そして、朗読へ。
原啓一さんはまだ若い俳優さんで、シャンソン歌手でもあるそうです。
背が高くて、声が朗々ときれいです。
宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」を読みました。
朗読を始めると、とっても若さが溢れていて、力一杯なのが伝わってきます。
宮沢賢治の物語は独特の言い回しがあって、朗読をするのはなかなか大変なのですが、
それを感じさせないところ、、自分のものにされているのでしょう、聴いていて心地良かったです。
後で伺ったところ、朗読を始めてまだ2年に満たないとのことですが、
とてもそうは思えませんでした。

休憩を挟んで、松橋登さんの朗読が始まりました。
森鴎外の「高瀬舟」です。
あっという間に、その物語の世界に引きずり込まれ、
そこの場に立ち会っているかのようです。
朗読って、こんなにすごいものだったんだ・・・。
息を詰めて聴いてしまうほど現実味を帯びています。
物語は二人の登場人物の会話から成り立っていますが、その言葉が一つ一つ、
説得力を持って語りけてくるのです。

以前、何年か朗読をやっていたので、その難しさが良くわかっているつもりです。
演劇より難しいと思うのです。
動かないからごまかしが利かないし、一人でずっとその緊張感を保っていなくてはならない。
昨夜、ひねもすのたりのオーナーのMさんから「松橋さんの朗読は絶品ですよ」とメールがありましたが、
本当です。来て良かった!!

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終わって、お二人の挨拶と今後の活動予定の話しがありました。
6月は、荻窪のかんげい館(かんげいはとても難しい文字です)で、松橋さんの朗読会があるそうです。

散会して、松橋さんに用意してきたバラの花を渡しました。
「朗読、素敵でした」と伝えますと、自然体でご自分の感想を述べていました。
謙遜でもなく、自己顕示もなく、本当に自然。そして、とてもオープン。
それなのに、言葉に出来ない何か・・・圧倒的な力のようなものを感じました。
あらためて、ファンになりました。
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by haru-ha-akebono | 2012-05-19 00:22 | アートの時間

教えるってことは・・・

『人を愛し、人を大事にしたいと思えば思うほど、何でも教えたくなり、何でも手伝いたくなってきます。
 これは自然な情だと思います。でも、この“教える”ということがどうしても
 “命令”や“強烈な指示”と取られてしまい、全然、善意や愛のこもったものとして伝わらないことが
 あまりにも多いのです。・・・・・
 
 もし、本当に相手のことを大切な存在だと思うのであれば、ちょっと指示的に教えることをストップして
 “適切な質問をしながら、相手の言葉を聴かせてもらう”ということに心を向けていただけたらと思います。
 つまり、私たちは人からの答えをそんなに求めていませんし、いつもいつも“答え”が投げかけられたら、
 “考えることをしない人間”になってしまう恐れがあります。・・・・
 
 もっとも、私たちは自分が“教えたがり屋”になっていることすらなかなか気がつかないことが多いのです  
 が、何となく自分は人に対して親切で、人に対して何かをしてあげたいと思っているという自覚がある方々
 はどこかに“教えたがり屋の種”を持っている場合が多いようです。』

                              関根一夫・著「いてくれてありがとう」より
                               『「教える」のではなく「聴かせてもらう」ことを心がけてみる』



わたしが、臨床美術の勉強を始めた時に2回ほど講義にいらした、
アート・セラピー・ファミリィ・カウンセラーで牧師さんの関根一夫さんの著作「いてくれてありがとう」
は、高齢者家族を介護する人たちとアートセラピストのための本です。

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介護の場に限らず、この言葉はものを教える立場の人には重要なことです。
わたしも現在ヨーガを教えています。
教える「教師」と「生徒」の関係は、気を付けないと≪依存≫という関係を作り出すからです。
教師も生徒も、精神的な≪闇≫を持っているのが普通ですから、
何かの問題性を持った生徒に≪共依存≫してしまう教師があってもおかしくありません。
唯の人間は、その≪闇≫ゆえに惹かれ合うということがあります。
自覚がないまま、教えたり教えられたりの居心地の良さに陶酔するうちに、
大切なことを見失っていったり、まずくすると周りの人間関係をも巻き込んでいくのです。
教える側は、まず一歩退いて、教えたい自分は一体全体何を求めているのか、
をよく考えてみる必要があります。
自分の力を誇示したい、相手を自分の支配下に置きたい、などの本来教えるもの以外の
自分のコンプレックスが隠れていないか、注意が必要です。
教わる側も、庇護されて楽したい、自分は何も考えなくていい、と甘える気持ちがないか
考えてみないと、自分の成長は止まってしまいます。

この本の言葉は、「教える」ことを媒介に、人間関係のとても普遍的なことを伝えていると思います。

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by haru-ha-akebono | 2012-05-18 17:33 | わたしは誰か?Who am I?

松橋登、原啓一 朗読の会 at ひねもすのたり

明日から、阿佐ヶ谷のひねもすのたりで、松橋登さん の朗読会が始まります。
以前、ブログに書きましたが、中学生の頃に松橋さんをTVで観て大ファンになりました。
その時の透き通るような印象とは裏腹の役柄がその後は続き、内心納得がいかなかったのです。
昨年末、ひねもすのたりのブログを見ていて、オーナーのMさんが松橋さんのファンだと知りました。
ひねもすのたりにもお茶を飲みに来たことがあると聞き、
そして朗読会の企画を考えていることも聞きました。
Mさんの実行力に、感謝しています。
松橋さんは、声も素敵です。
天は二物を与えたのですね!!




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by haru-ha-akebono | 2012-05-17 23:47 | アートの時間

出来ることをすればいいのです

4月、日本ヴェーダーンタ協会のナラ・ナーラーヤナ活動に初めて参加しました。
これは、横浜寿町での、ホームレスへの配食活動です。
ヴェーダーンタ協会以外に、「炊き出しの会」、キリスト教会、横浜の大学生などが参加して
何百人というホームレスの人たちに昼食を作り配っています。
奉仕やそれに類する行為は、本当は人には知られないようにするものだそうです。
自分の修行もです。
でも、このような活動を行っている団体があることを知って欲しくて、書きました。
わたしがこの活動に参加するとき、「奉仕をしてもホームレスは減らないよ」と言った人がいました。
もちろん、そんなことはわかっています。
ホームレスへの奉仕は、ホームレスを社会復帰させることではないし、
配食したくらいでホームレスが減るなんて、ありえないことです。
それでも、何もしないよりいいのです。
今、必要なことをすればいいのです。
ご飯を食べるチャンスが1回でもあれば、多くなれば、それでいいのです。
相手に対しても、自分に対しても、何も期待していません。

週に1回ほど通っている、高齢者施設でのアートセラピー(臨床美術)も同じです。
それを行って、高齢者の状態や持病が良くなるかどうか、それはわかりません。
それでも、絵を描くことでその時間、高齢者の方の心が開放され、
その絵画を制作することで生活の質が少しでも向上すれば、それでいいのです。
人から褒められる機会が少なくなった高齢者の方たちは、アートセラピーの時間、
とても活き活きしています。
絵を認められる環境の中で、自由に自分を表現出来るからです。
感情の起伏が激しくなる認知症の方は、症状が絵を描くことによって少しでも緩和されれば、
ご本人にとっても家族にとっても、生活の質が上がったことになります。

向上心が強い人は、高齢者やホームレスなどの社会的弱者と接するのは、嫌なのかもしれません。
自分が行った行為で、『向上』という目に見えた結果は出ないのです。
だから、奉仕活動をする年配の男性は、圧倒的に少ないようです。
「どこか前方に進んで行って、なんらかの結果になる」ということはない・・・そういう活動です。
それでも、それを必要とする人はいるのです。

20日(日)日本ヴェーダーンタ協会例会に、「炊き出しの会」会長の近藤さんがみえて、
ホームレス支援の活動経験を話されます。

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by haru-ha-akebono | 2012-05-17 00:03 | 炊き出しの会のこと

東京で学ぶ、ヨーガスートラ

今度の土曜日の「ヨーガスートラを学ぶ会」は、第1章『サマーディ・パーダ』の山場だそうです。
「ヨーガスートラ」と言うと、どうしても第2章の中の『ヨーガの8支則』の講義が中心になってしまいます。
が、「ヨーガスートラ」は様々な聖者の解説を読むと、本当に面白いのです。
中には日常生活の中で活かすことが出来ることにも出会えます。
勿論、ヨーガの実践にも!!
ゴールデンウィークに行った「広島ヨガピース」の坐学は、「ヨーガスートラ」でした。
それがきっかけで、「ヨーガスートラ」をもっと深く学びたい人が増えると嬉しいです。
実践=アーサナと哲学が、どこかで結びつきますように。


ヨーガスートラを学ぶ会 No.8 のお知らせ
日時 5月19日(土) 開場 2:30p.m.  開講 3:00p.m.~5:00p.m.
場所 沙羅舎2F こころとからだ塾   講師 抱一
参加費 2,000円
今回は、ヨーガスートラ第一章17節18節を学びます。
今回の主題は、一般的に有想三昧と無想三昧と呼ばれている三昧の内容の解説です。
有想三昧のサンスクリット語は、サムプラギャータ・サマーディで、字義的意味は「高度な認識を伴う三昧」です。
この種の三昧には、推理(ヴィタルカ)、識別(ヴィチャーラ)、至福(アーナンダ)、私意識(アスミター)の三昧があり、それぞれの三昧の対象は、粗大領域、精妙領域、至福の感情、私意識であり、三昧の内容は段階的により微細で深くなって行きます。
無想三昧のサンスクリット語は、アサムプラギャータ・サマーディで、字義的意味は「高度な認識を超越した三昧」です。
そこでは有想三昧の対象は消滅し、対象の無い超越領域への没入があり、同時に潜在領域では過去の印象(サムスカーラ)が意識化されずに活動している状態です。
サマーデイ(三昧)も多様であり、その多様性とその階梯をパタンジャリは段階的に明確に解説しています。
皆さんのお気軽なご参加をお待ちしております。

抱一
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by haru-ha-akebono | 2012-05-16 20:07 | 聖典を学ぶ

観察すること

≪識別する力が育っていないと、ヤマ・ニヤマを行うことは困難です。≫
と、以前ブログに書きました。
識別力は、アーサナを行うことで育てることが出来る、と思っています。
アーサナを行うとき、肉体や心に起きることを観察すればいいのです。
その観察する行為が識別力を養います。
まずは分かり易い、自分の身体が対象です。


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日常生活では、外側の事象に感覚が向かい、心は絶えずその刺激を受けて判断を下しています。
ヨーガ・アーサナを行うときは、自分の身体と静かに向き合うことが出来るのです。
アーサナは完成させたり、美しく行うことが目的ではありません。
人と比べるものでもありません。
アーサナを行うことで、自分の肉体の中にどんな感じ=刺激が起きているのかを眺めるのです。
ある一点に強い刺激があったとして、それが何処へ向かって伸びて行くか、
あるいは発生しているのか。
それらを、意識化するのです。
アーサナを緩めた時、今度はどんなことが起きているのか、これも丁寧に観察します。
加えた刺激が何処へ向かって消失していくのか、完全に緩まっていくのも見届けます。
アーサナの形を造ることに気を取られていると、これらがおろそかになります。
また、ゆっくりと動かないと、観察することは不可能です。
この一連の行為は、またプラティヤーハーラやダーラナーの練習にもなります。

私たちの日常生活が、いかに朦朧と行われているか、
肉体や心の意識化が進んでくると、良く理解できるようになります。
朦朧としているうちは、サティヤ(=真実を話す)にはなれません。
また、意識しながら動くことで肉体の深い開放感が生まれます。
それは心の開放感も伴っています。
心理の深いところまで開放感が及ぶと、自分は一つの全体であると実感できることでしょう。
私たちの日常生活の問題は、自分の全体が意識出来ず、
肉体・心・感情・思考が分裂しているために発生しているのです。

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by haru-ha-akebono | 2012-05-15 16:55 | わたしは誰か?Who am I?

ハタ・ヨーガ~月と太陽のヨーガ

先日、広島ヨガピースで、≪アーサナと哲学がどう結びつくのですか?≫
という率直で正直な質問をされた方がいました。
わたしもハタ・ヨーガを始めた頃、それが疑問でした。
人間中心療法というカウンセリングに行き詰って、
ジョーン・ボリセンコさんが書いた「身体に聴いて心を調える」という本に出会い、
すぐヨーガを始めました。
でも、身体を使うヨーガの場で、今度は心の問題はあまり出てこなくて戸惑いました。
しばらくすると、リシケシのシバナンダ・アシュラムからスワミ・ジが来て、
サットサンガがありました。
今思うと、ヴェーダーンタ哲学の話しがあったのですが、
それが毎週行っているアーサナとどう関係があるのか?理解出来ませんでした。


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     アーサナをするスワミ・ヴィシュワルーパナンダ・ジ


「パタンジャリのヨーガ・スートラ」第2章のアシュターンガ・ヨーガの中に「アーサナ」が出てきますが、
これは瞑想のための坐り方のことです。
ヤマ・ニヤマから瞑想の三昧までが書かれています。
しかし、これは当時のヨーギたちにもなかなか難しかったらしく、
それでハタ・ヨーガが生まれたと、聞いたことがあります。
身体を使うと具体的。
身体を色々に動かして、心身が爽快かつ浄化されれば、
自然とヤマ・ニヤマにあるようなことが出来るようになる・・・。
そう、気が付いたヨーギたちがいたのでしょう。
身体を使わないヨーガの人たちからは、一段も何段も低く見られながらも、
ハタ・ヨーガは衰退するどころか、今日は主流となっています。


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  リシケシのシバナナンダ・アシュラムの前総長スワミ・チダナンダ・ジが太陽礼拝をしている小さな像


今、ヨーガの世界ではカリユガの時代(鉄の時代)と言われていますが、
このカリユガの時代は人間が肉体に依存する時代と言われているそうです。
スポーツクラブやエステなどが流行っているのもそのせいなのでしょうか。
その真偽はともかく、どの人も、身体を使うことは魅力的な自然な行為だと
無意識にわかっているのだと思います。

さて、ハタ・ヨーガにもきちんとした理論と思想の世界があるのです。
それは、タントラ。
アーサナをして、いきなりヴェーダーンタ哲学やアシュターンガ・ヨーガの思想(ヤマ・ニヤマなど)
に飛んでしまわなくてもいいのです。 
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by haru-ha-akebono | 2012-05-15 00:39 | シャクティの力

ヒロシマの死の灰

広島ヨガピースの帰りに、広島平和記念資料館へ行きました。
写真でしか見たことがなかった原爆ドームを見てから、
平和記念公園へ。
その日は大きなお祭り「フラワーフェスティバル」で、
資料館の前はイベント(和太鼓演奏やバトンガールのダンスなど)がにぎやかに行われていました。
原爆死没者慰霊碑の前は沢山の人の列が出来ていて、並べないほど。

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資料館の中も、すごい人でした。
原爆が広島に落とされることになった経緯を詳しく知ることが出来るコーナーで、
人間の底知れない悪意に圧倒されました。

そこに続く、焼け焦げた遺品や抜け落ちた髪の毛よりも恐ろしくて、ぐったりしてしまいました。
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資料館を出たとき、頭が痛くなっていました。
外は、まだイベントの真っ最中。
このイベントの華やかさと好天候に救われていたのです。

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帰宅してから、数年前に購入した細江英公「人間写真集・死の灰」を見ました。
この写真集には、ポンペイ・アウシュビッツ・ヒロシマ、
そして1945年7月16日に世界初の原爆実験が行われたトリニティサイトの写真が収められています。
ポンペイは天災だったけれど、アウシュビッツ、ヒロシマ・ナガサキは人災。そう書かれています。
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by haru-ha-akebono | 2012-05-13 15:14 | 祈りの言葉